楽ゆる式◎セルフケア整体

心と体が楽になるコツ。辛い症状・病気を自分で治したい人へのヒント。 ----- by 楽ゆる整体&スクール代表 永井峻

【楽.253】心がフッと軽くなる!「ひいて見る」具体策

f:id:cookyourself111:20161106154811j:plain


「それしかないと思っちゃうと、
  それさえ手に入らないってこと、よくあるんだよね」
           (死ぬほど酒が強い経営者)

 

■ ぼくらが生きているのは、自分の意思だったっけ?



ぼくたちは「生きている」というよりは、
「生かされてみている」のかもしれない。
 
今回、一番伝えたいことは、これです。

生きているでも
生かされているでもなく、
生かされて「みて」いるんじゃないか。
 
そんなノリで、
半分、実験ぐらいに思ったほうが、軽快にいられるんじゃないか。
健康に、いい成果を出しながら生きられるんじゃないか。

そう思うんです。


そして、そもそもの事実。
ぼくらに「生まれることを選んだ」という記憶はありません。

「運命を背負って、試練を自ら設定して、
 実は親を選んで産まれてきているんだ」という説もある。

それを否定するつもりは別にないですが、
どっちみち、記憶はありません。

気づいたら、この世に生んでもらっていた。
それが実態に近い表現だと思うんです。
(有り難いのは大前提として)

なぜそんなことをあえて言いたいかというと、
「それしかない」という思いは、
ときに自分を縛る鎖になるからです。


■ ひとつを大事に思い過ぎると、身動きがとれなくなる



自分だけ大事にし過ぎる人は、他人に嫌われます。
結果としては、自分のことを大事にできません。

これってゾッとするけど、真実ですよね。
身の回りでも、よくある話だろうと思います。
 
まわりが見えなくなる。
自分のことが好きなのは構わないけど、
他人のことも好きでないと、バランスがとれない。

人間には「集団欲」という根源的な欲求があるから、
ひとりでは幸せを成すことができないんです。
一時的な快楽はあっても、決して満たされません。
(少ししたら、より強い乾きに襲われる。その繰り返しです)

だから、大事なものこそ、
「それだけに集中し過ぎないこと」が大切。

ちゃんとした言い方で言えば、
「執着しないこと」が大切です。

子育てのケースを考えると、さらに別のことも見えて来ます。

我が子だけを見て、自分のことも結婚相手も二の次で
その子だけを大事にしていたら、
その子も家族関係も、いびつになってしまう。

「子は親の背中を見て育つ」と言いますが、
ずっと親がこっちを向いてしまっていたら、
育つために追いかけるものがありません。
戸惑うばかりで、子どもは幼子のままになってしまいます。
(今、そういう若い子が増えているとも思います)

そしてその傾向は実際に、
「一人っ子」のケースに顕著になりがちです。
そう、「一人しかいないから」です。

執着は、「操作主義」を生みます。
それは「それに関するすべてを思い通りにしたい」という
強すぎる「執念」を生みます。

これが、苦しい。
まわりも苦しいけど、本人が一番苦しくなる。
「思い通りの子に育って欲しい」なんて思えば思うほど、
親も子も苦しい迷路にはまり込んでしまう。
ここまで来ると、もう「妄念」ですね。

どっちの成長も止まり、自由は縛られ、
双方の個性が死んでしまう。


■ 肩の力が抜けているときが一番強い



執着の危ないところは、
「相手(対象)の自由や権利」を許せなくなることです。

子どもに対しての想定は、わかりやすかったかと思います。
そして、たとえを元に戻せば、
「自分だけを大事にし過ぎる人」にも、同じことが起こるわけです。

成長は止まり、自由は縛られ、個性は死んでしまう。


それよりも、自然なスタンスと関心で、
変化を楽しんで見守っているようなときのほうが、
ずっといい結果が出ます。

のびのびと成長し、自由が解放され、個性は花開きます。

「花開く」って言い方をしましたが、
それこそ植物だって「いじりすぎる」とおかしくなりますもんね。

肩の力が抜けてるときが、一番、能力の出るときです。
関心はちゃんとあるけど、リラックスしている。
執着していない。
操作をしようとしない。

見守っている。
何かあれば、もちろん、助けようと思っている。

そういう「一歩引いたスタンス」が、
大事なものがすくすく育つためのコツだと思うわけです。
大事な人や大事なことを、真に大事にできる王道なんじゃないかと。


とはいえ、人間ですもの、
自分のことをすごく大事に思うのは、自然なことです。

だからこそ、発想を少し変えてあげると、
視界が開けてくるんです。


■ かりそめの生という結果的真剣さ




だから、
「生かされてみている」と考えることが有効だと思うんです。

「(自分で)生きている」というほど気張らず、
「生かされている」という悟りの境地はもう少し後にとっておいて、
「生きてみている」というほど不遜ではなく、
「生かされてみている」というバランス。

ちょうどいいんじゃないかと思うんです。

「せっかく生かしてもらってるんだから、
 色々、やれることはやってみようかな」っていう。

操作できないことも、思い通りにならないことも、
「想定外」だと思うからハラが立つわけで、
実は期待しすぎているんです。
それは「自分で生きている」と思い過ぎているからです。

生かされてみているだけなんだから、
操作できないこと、思い通りにならないことのほうが
多くて当たり前です。まわりあっての自分ですからね。

アホな言い方になりますが、
「自分より他人のほうが、人数が多い」ので(笑)、
思い通りにいくほうが珍しいんです、本来。
王族じゃあるまいし。


「一度きりの人生」と思ってちょうどいい人もいるけど、
今は、「何度かある人生の一つを、生かされてみている」
って思ったほうが、よい力加減で生きていける人が
多いんじゃないかな。

人生が1回きりかどうかなんて、
今の世界のレベルでは判明できないと思います。

1回きりだ!って断言するのも、
いや、何回もあるんだ!って断言するのも怪しいもんで、
「どっちもありうる」としか言えないはず。

ただ、質量保存の法則なんてものがある通り、
水は決してなくならないように、
(蒸発してもまた雲に・雨になり水に戻る)

「消滅しないもののほうが多い」
ってことは、言える氣がしています。個人的には。


それも踏まえて、
「何度かある人生の一つを、生かされてみている」
っていうスタンスは、割と多くの人を、
今よりのびのびと育ててくれるんじゃないかと思うんです。

で、ほんとの「覚悟」って、
逆にこういうものなのかもしれない。

「必ず成し遂げる」という覚悟って実はまだちょっと浅くて、
「成し遂げられるかどうかは関係なく、最後までやり切るし
 最後まで見切る」というのが、覚悟なんじゃないか。

結果にこだわっている時点ではまだ、
「捨て身」になりきれていない分、
覚悟が軽いんじゃないか。
結果を超えたもの、つまり「期待」を捨てた先に、
本当の重さをもった覚悟があるんじゃないか。

となると、
「生き切ってやる!」とリキんじゃうよりも、
「生かされてみている」という期待(予断)のなさにこそ、
本物の覚悟が宿る……かもしれない。


そして、ようやくタイトルの話ができますが、
それが「ひいて見る」ための、奥義だと思うんです。

問題があるたびに、一歩引こうとするんじゃなくて、
自分の命自体に対して「一歩引いている」から、
常に視野を広く保てる。

そんな風に、思ったんです。

そして、圧倒的にすごい人たちを思い浮かべると、
みんななんだか、そんな風に見えてくるんです。

ガンジー、マザーテレサ、キング牧師、
空海、レオナルドダビンチ、etc……

どの人を考えても、
「自分の命に対して執着なく、一歩引いてる」ような、
潔さを感じるんです。
決して投げやりではない「捨て身」を感じる。

それが、普段の態度というよりは、
「生き方」を結果的に真剣にしているような。

だから、やることの意味はすごく重いけれど、
人としては「軽やかさ」が香ってくるんじゃないか。


ちょっと飛躍しちゃった氣もしますが、
仮説として、考える材料として使ってもらえたら、
と思いつつ、なんとか言葉にしてみました。


どうでしょう?



ではでは、くれぐれもお大事に!
会社でも「いつ辞めても大丈夫な人」って、すごい活躍しますよね。