楽ゆる式◎セルフケア整体

心と体が楽になるコツ。辛い症状・病気を自分で治したい人へのヒント。 ----- by 楽ゆる整体&スクール代表 永井峻

面白い話の1番大切な条件

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面白い話は、
しみじみとした「真実み」でできている。
語り手の「誠意」が伝わってくる。

面白くない話は、
そこかしこに「嘘くささ」が混ざっている。
語り手の「作為」が匂って鼻につく。
 

 
この違いは決定的で、
日常生活はもちろん、仕事にも影響する。
そう感じることが増えてきました。

落語、
ドラマ、
映画、
小説、
漫才、
日常会話、
エッセイ……

なんでも同じ。

「あるあるネタ」というのが、一般的になりました。
この流れは、
「うんうん、あるよね、そういうこと!」って、
「共感できるから面白い」という心の、証拠みたいなもの。

共感は、感情移入をうみ、
「自分のことのように感じる」から、
その先の語りが、スーッと入ってくる。
入ってくるから、楽しめる。

そいういう構造が、あらゆる「お話」にある。
だから「共感できない話」は、楽しめない。
楽しむところまで行けない、と言ってもいい。


たとえば落語は、
「共感のかたまり」だと思うんです。
「たしかに、いるいる、そういう人!」
「あるある、そういうこと!」
という中に、「真実み」や「おかしみ」がある。

ぼくはやっぱり松本人志が好きなんだけど、
彼の「すべらない話」は、リアルなんです。
激しい感情がこもっていたとしても、
多少は大げさに盛ってはいるとしても、
「リアルさが決して死なないように」してある。

それは多分、誠意でもあるし、
面白さの絶対条件なんだと思います。

逆に、「すべらない話」で、あまり面白くないと
感じる話もあって、その一番の共通点は、
「嘘くさい」ということ。
大げさ過ぎたり、流れが不自然だったり、
「そんなこと普通言わないでしょ」というセリフが入ったり……
「共感」がないから「感情移入」ができない。


象徴的な言葉がありました。
博多華丸大吉の「大吉先生」です。

彼らの漫才って、最近、
「飲み会前後の話」がすごく多いですよね。
それは彼らの年齢的に、
「そういう話じゃないとリアルにやれないから」だそうです。

華丸さんが、
「俺は乾杯のあいさつが上手になりたい」
なんて言って漫才が始まったりしますが、
あれはもう、本人の実感がこもった「本音」です。
そして多くの人が「わかる」話でもある。

入口からずっと「共感」がある。
出口までずっと「共感」がある。
その間ずっと「真実み」を保っている。
だから「おかしみ」が伝わってくる。

最近テレビでも見る機会が増えた
「和牛」の漫才も、似ていると思います。
実際にギリギリいそうな「ウザい男」を、
「そういうところありそう」で似合う水田くんが、演じている。


真実み。
リアルさ。


ガヤガヤした情報で水没しそうな今、
こんなに大切なキーワード、
なかなかないんじゃないかな。


ぼくは、
セミナーの案内文を書くときも、
ブログを書くときも、
本の原稿を書くときも、
誰かに話をするときも、
ずっと自分に問い続けているのは、これです。

そこに、真実みはあるか?
ウソになってしまわないか?

「事実は小説より奇なり」といいます。
ほんとうに、事実そのものに一番パワーがある。
あらゆる飾りや表現は、
事実のパワーを強めたり、伝わりやすくするためにあるもので、
ウソで歪めてしまうと、一番大切な素材の力が死んでしまう。

「上手なウソ」の面白さというのもあるけれど、
それは「ウソだ」とお互いがわかって楽しむものであって、
騙しであってはいけないんだろうと思うんです。


面白くしたいからこそ、
リアルさを汚さない。

飾る必要もなく面白いリアルを、
つかんで、活きのいいまま刺し身にして出す。

それこそ魚と一緒で、
本当においしいイワシの刺し身は、
手を加えすぎた舌平目のアクアパッツァより、うまかったりする。
特別な、高級な素材かどうかよりも、
新鮮さや、素材の活かし方のほうがずっと大切。

「文章を書くコツって何ですか?」ってよく聞かれるんですが、
ぼくは、これ以上に大切なコツなんて、ないと思っています。


事実と本音の濃度を、上げていきたい。
文章にも、生き方にも。