「自分探しは、自分ではできない」
ぼくは、この真実を知るまでに、
ずいぶんと回り道をしました。
じゃあ、有効な方法は?
……自分の「外」にありました。
よく考えたら、ぼくらって、
「鏡を見ないと、自分の顔もわからん!」
ですよね。
「今はスマホがある!」
って声もあるでしょうけども、同じ話ですね(笑)
「何かに映る自分」だけが、見える。
自分で「自分探し」をするのって、
何も道具を使わずに、なんとかして自分の顔を確認するような作業なんだと思うんです。
『そりゃあ無理じゃろう、若いの』と。
じゃあ、
自分探しを助けてくれる「鏡」って何なんだ、じいさん?
それは……
●1)自分が試されるレベルの仕事やイベント
●2)真剣に話せる他者
●3)よくできた類型(パターン認知と検証)
という3つじゃろうなぁ。
●1)自分が試されるレベルの仕事やイベント
であれば、ある程度、
「当たってくだける」ことができて、
くだけたカケラは、よく見える。
何ができるのか、
何はできないのか、
できたとき、どうなるのか、
できないとき、どうなるのか。
それは「安全圏」にいたんじゃあ、顔を出さない自分です。
●2)真剣に話せる他者
先輩や上司など、目上にいてくれたら、理想的です。
「実際、自分って、どう見えてるのか」
「自分の行動が、どういう意味になってしまうのか」
「人と自分は、どこが、どう、どれぐらい違うのか」
それは、話さないとわからない。
ぼくらは「比較しないと理解しきれない」から。
生まれて初めてみる「ペルシャ絨毯」が
美しいのかどうかなんて、
「何枚も他のやつを見てみないとわからない」んです。
まして、個性とか特長については、ますますわからない。
だから、自分という人間を深く知りたかったら、
自分以外の人間を深く知る必要がある。
その「比較」で、やっと個性が見えてくるから。
それは、
「違いを面白がれる」ぐらいの信頼関係がある他者がいて、
はじめて見に行ける世界です。
●3)よくできた類型(パターン認知と検証)
これ、わかりやすいのは、血液型です。
「そんなの、レッテル貼りの決めつけでしょ?」って
嫌う人もいるけれど、うん、気持ちはわかりますよ。
たしかに、そういう使い方だったら、つまらない。
ただ、そうじゃなくて、
レッテルを甘めに貼ってみたときに、
「それが似合うかどうか」。
意外と似合うなら、なぜか?
やっぱり全然似合わないなら、なぜか?
そこに、本当の自分が顔を出すことがあるんです。
「決めつけて覆うカバー」ではなく、
「剥がして掘り起こすスコップ」として、使う。
ミステリー小説と同じでね。
犯人が誰か、何もないまま読むよりも、
「自分なりに仮説」を考えながら読んだほうが、
ずっとよく考えるし、面白いでしょう?
類型はあくまでも、分析を深める装置なだけ。
……という説明の中で、
やっぱり改めて、再確認するんです。
「あ、自分ひとりでやれる作業って、ほぼないな」と。
あ、そうそう、
●3)よくできた類型(パターン認知と検証)
これだけは、自分でやれる気がするかもしれません。
でもね、ここでのキーワードは、
「自分に似合うかどうか」で、
それを「正確に判断できるのは、あなた自身ではない」んです。
なぜって、
ぼくらが一番多大な期待をかけてしまう相手は、
ぼくら自身だからです。
自分が好きすぎても、嫌い過ぎても、
どっちにしてもその根底にあるのは「執着」です。
執着は目を曇らせるから、
「類型と自分の比較」が、ちゃんとできないんですね。
で、こんな文章をちゃんと読んでくれるあなたが、
「ちょうどよい自己愛」をもっている可能性は、
けっこう低いわけです(笑)
ごめんなさい、失礼なこと言ってるけど、
そもそもそんな人、100人に1人もいないからね。
ぼくなんて、自分のことを、
【常に明るくて誰からも親しまれるタイプ】
だと思ってましたもん、けっこう長い間。
もうほんとうに、かたじけなかった。
勘違いがひどすぎて。
だから、血液型の話だって、
ちゃんと話せる仲間と話すと、面白いんです。
決めつけじゃなくてね。
「自分的にはここ、意外なんだけど、
まわりから見たら、そういうとこ、あんの?」
「ええー! 気づいてなかったの!!
あんたそういう、一匹狼だぜ構ってくれるな、
的なオーラ、新宿一じゃん!(笑)」
つってね。
ツッコんでもらうわけです。
●思うようになんて全然演じられてない自分。
●演じてるつもりのスキマからハミ出てた素の自分。
●演じてるうちに自分まで勘違いしてた偽の自分。
●自分の角度からは全然見えない背面の自分。
自分のことなんて、半分もわかってません。
それは、教えてもらうしかない。
……さて。
最後のまとめとして、
すぐ使えるものを、もうひとつだけ。
「自分を遊ぶ」ってキーワードを、
ぜひ、頭に入れておいて欲しいんです。
それぐらいの「距離」が、ちょうどいいから。
ぼくの感覚では、自分を「車」だと思ってるんです。
車の性能をよく知ってたら、
スピードを出すのも、
ゆっくりのんびり走るのも、
止まりたいときにブレーキを効かすのも、
きれいに長保ちさせるのも、
誰かを乗せて一緒に楽しむのも、
自由でしょう?
もちろん、事故も少ないよね。
行きたいところに、行きたいように、行ける。
この逆が、自分という車を知らないってことだから。
スピードは出ないわ、
止まりたいときにブレーキは効かないわで、
危なくてしょうがないし、
行きたいところには着かないよね、どう考えたって。
ものすごい不自由です。
交通ルールは割と社会とか本とかで学べるんだけどね。
車自体のことって、
本人次第の部分が大きすぎて、
知識の差が異常にあるもんね。
車で遊べば遊ぶほど、車に詳しくなる。
そういう「車好き」な友達と話したら、もっとわかる。
その人と一緒に車に乗ったら、さらにわかる。
ちょっと難しい道とか運転したら、すげえわかる。
そういう、
「超面白くて役に立つ乗り物」的なイメージで、
自分という今回の「うつわ」をみてみたら、
ええんじゃないかのう。
運転者である自分本体を
評価するニュアンスがあると、
自分の分析って、一気にやりにくくなるからね。
あくまで、乗り物の話。
まずはそこを知るのが「素質」です。
そんなライトな感覚でいられたら、
自分でやる難航しがちな「自分探し」の旅も、
けっこう楽しめるドライブになるんじゃないかのう。
せっかく一生乗るんだからさ、
その車に、詳しくなろうよ。
わしゃ、そう思うとるんよ。
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