「(つらぬけたのは)野球を愛したこと」
ぼくにはこの言葉が、1番、響きました。
なぜなら、
「野球を好きだった」とは、言わなかったからです。
なんども涙をこらえながら、
本音を話してくれていたイチローの記者会見。
これから10年とかをかけて、かたわらに置いて、
読み解いていきたい言葉だらけでした。
彼の世界レベルで輝かしい野球キャリアでも、
「たいへんな苦しさがあった」
という重々しい告白もありました。
つまり、彼ほどの選手にとってさえ野球は、
楽しいことばかりでは当然ないし、
好き・嫌いというレベルの存在ではないのでしょう。
でも、
「野球を愛すること」は「貫くことができた」と。
そして、
「野球を好きだった」という言い方は、しなかった。
「好き」というのは「感情」でしかなく、
「愛する」というのは「動詞」である。
ぼくは、そういう含みを、
その覚悟の積み重ねを、感じました。
苦しくても、
よくないときでも、
お先が真っ暗に見えるとき、
もはや嫌いになりそうなときでさえ、
「愛する」という誠実な作業を、
決して止めなかった。
そういうことなんじゃないか。
好きだから愛する。
大事にしてくれるから愛する。
うまくいって心地いいから続けられる。
そういうのは多分、
「まだ一週もしていない」んじゃないか。
愛することで、好きになる。
大事にしているうちに、かけがえがなくなる。
全身全霊で対峙するうちに、かけがえのないつながりが、
己の切り離せない一部になる。
うまくいかないときも、大事で切り離せない以上、
投げ出すという選択肢はない。
いいときも悪いときも、掴んで話さない。
沈むのも浮かぶのも共にする。
そういう螺旋のような10周、20周が、
ようやく一握りの一流をつくっていく。
きっと、プロフェッショナルや職人にとって仕事は、
絶え間なく魂を差し出し続けるような営み
なんじゃないでしょうか。
一人の人間が28年間、
1日も絶やさず薪をくべて、
命脈を保ち続けてきた聖なる炎。
その熱に触れさせてもらったような、
イチローの言葉であり、顔でした。
ぼくはまだ整体師として10年。
駆け出しでしかありません。
才能とか実績とか勲章とか記録とか目標とかビジョンとか
つい目が奪われそうなアクセサリーを「よそに」して、
「人間の可能性」を愚直に愛し抜くことが、できるか。
(たまに浮かれてしまうことはあるにせよ)
そういう問いを、もらいました(勝手にね)。
この問いの「素振り」を続けているうちは、
どんな嵐にあっても自分の位置を見失わない。
船を水底で支える「錨」のような問いです。
好きだから、好きなことを、やる。
それを悪いこととは思いません。
でも、そのコンパスしか持たない船は、
ちょっとした横風で沈んでしまうかも知れない。
「好きじゃない一部」にぶつかったとき、
簡単に折れてしまう危険がある。
好きで始めたことを、全力で愛する。
辛かろうと痛かろうと報われなかろうと、
想定していない壁に何度ぶちあたろうと、
思いを定めて、近づく。
義理を通すということ以上に、
自分の初心やスタイルを裏切らず、頑固に大事にする。
ぼくは、そういうつもりで、
整体という仕事に携わっていきたい。
この若造に体を預けてくれる人たちに、向き合いたい。
改めて、そう思いました。
久しぶりに1つ、
「一生続けたい素振りの型」が、見つかりました。