楽ゆる式◎セルフケア整体

心と体が楽になるコツ。辛い症状・病気を自分で治したい人へのヒント。 ----- by 楽ゆる整体&スクール代表 永井峻

後悔の9割は「勘違い」である

後悔の9割は「勘違い」である



ぼくは、後悔がキライです。
生きる力の根っこをやられる気がするから。

自分の過去を「ダメだった」としちゃったら、
今の自分にOKを出して生きられない。

だから、
「後悔しないように生きる」と考えてきた。
20代までは、とくに。

……けれど、このところ、
「抱えてきた後悔を消化する」
という方法があるって、知ったんです。

なぜ、これが大事か?

 
いつまでも自分に自信が持てないとか
自己肯定感が育たないといった悩みの「原因」が、
「未消化の後悔」にあることが多いからです。


■ ある映画が教えてくれたこと

すごい映画があるんです。

どうやってネタバレを防いだらいいかわからないので、
とりあえず、映画名を伏せます(笑)

その映画は、かいつまんで言えば、
タイムスリップものです。

ある方法で、過去に戻れる。
その過去で「やり直し」ができる。
ただし、体に負担があるから、
「自由に何回も」とは、いかない。

そういうルールです。

主人公の青年には、好きな女の子がいる。
でも、彼女との関係がうまくいっていない。
そこで、「ハッピーエンド」を
目指して、何度も時をさかのぼるわけです。


……でもね、ダメなんです。

よくあるタイムスリップもののように、
「よし、これで未来が理想通りに変わった!」
って、ならない。
何かが、うまくいかない。

誰かがひどく傷つくこともあれば、
わけのわからないトラブルに巻き込まれたり、
そもそも彼女とうまく行かなかったり、
命があやういことにさえなったり……

タイムスリップをくり返しても、
「望む未来」には、全然、たどり着けないんです。
それどころか、
どんどん悪くなっていく。
自分の体も、タイムスリップの負担で、
限界に近づいていく……


そして、最終的には、どうなったか?

主人公の決断は、
「自分のハッピーを諦める」というものでした。

最後に選択した未来では、
好きな女の子の子の隣には、別の男性がいる。
でも、彼女は無事で、健康で、幸せそう。

それを「最優先」とする。

主人公はそんな彼女の様子を確認した後、
悲しみを噛みしめながら、
ひとりで、別の方向へ歩いていく。


■10年以上たって、気が付いたメッセージ。

ストロング・エンド。
ぼくはこの映画に、そう思いました。

ハッピーエンドではない。
でも、サッド・エンドやバッド・エンドでもない。

主人公の「強さ」がきわだって
心に残った、映画でした。


純粋に「面白かったー!」とだけ、
最初は思っていたんです。
20代の頃でした。


ただ、もっと「奥にある意味」に
気が付いたのは、
この5月になってからなんです。

あの映画がぼくに残した
本当に大切なメッセージは……

「後悔には意味がない」
ということだったんじゃないか。


■ 「正しかったはずの選択」の「その後」を知らない

ぼくには、後悔がある。
きっとあなたにも、あるでしょう。

でも、よく考えてみたんです。

「あのとき、ああしておけば良かった」と思うのが
よくある後悔のしかた……ですけども……

もし本当に「そうしてた場合」、
その後の未来がどうなっていたか?

そのことを、ぼくら、わからないんですよね。
1ミリも、わからない。
だって「そっちの未来はまだ見てない」んですから。

本当はこんなの、当たり前のことです。

でも、後悔の重さを背負ったぼくらは、

「あのとき、違うほうを選んでいたら、
 もっと良い未来だったに違いない」

って、思い込んでしまうんです。

(逆にいうと、そうじゃないと「後悔」って、
 成立しないからね)


でも、
「あのとき違うほうを選んでた」としたって、
別に、より良い未来なんかじゃないかも知れないんです。

むしろ、
「今手にしている未来」よりも、
「もっとひどい未来」だった可能性だって、
充分にあるんです。

あの映画は、その恐さを、痛みを、
見せてくれたものだったんじゃないか。


■ ぼくが20年以上、悔やんできたこと

ぼくの胸にずっとあった後悔。

それは、
「じいちゃんの最期に、何もしてあげられなかった」
というものです。

じいちゃんは、末期の胆のうガンでした。

11才のぼくがそれを知ったのは、
じいちゃんが亡くなった後のことです。

何も知らなかった自分、
そんな辛い状態のじいちゃんにワガママを言ってしまった自分、
最期を看取ることができなかった自分、
なぜ、不自然な出血を見たときに、何も気が付かなかったのか。
なぜ、もっとたくさんお見舞いに行かなかったのか……

悔やんでも、悔やみきれない。


それは、
何かの重りのように、
ずっと胸にあった後悔でした。


■ じいちゃんにとってのベストは何だったか

でも、ようやく、
考えることができました。

「もし、ぼくがじいちゃんの末期ガンを知っていた」
というシナリオがあったとして、
それは、本当に良いものだったのか。


きっとぼくは、まともに生活できなかったでしょう。

学校に行きたくない。
サッカーなんてやってられない。
何も楽しくない。
病院やお医者さんを恨む。
じいちゃんには会いたいけれど、会うのが怖い。
何をしゃべったらいいかわからない、泣いてしまう。

……きっと、
それこそが「じいちゃんが防ぎたかった未来」です。


だとしたら、
何も知らなかったぼくや、
弱ったじいちゃんにぼくが言ったワガママ、
最期を看取れなかったことでさえ……

「病状がわからないまま、いつも通りだった孫」
と最後まで会えたことが、
じいちゃんのベストだったのかも知れない。


――ぼくは今、きっと、
とても当たり前のことを書いているのでしょう。

でも、
あまりに悲しくて悔しいことだったから、
じいちゃん側のことを具体的になんて、
考えてこなかったんです。


これでまず、ひとつ、
はっきり解ったこと。

それは、
「じいちゃんが望んで選んだ未来」に対して
ぼくが後悔するのは、
じいちゃんの願いに反するということです。



■ 人はなぜか「後の自分」で後悔する

もう1つ。

ぼくがもしも、
「じいちゃんの病気を知っていた」としても、
満足行く結果になんて「できなかった」という事実です。

「じいちゃんにとって」だけでなく、
「ぼく個人のこと」のみを考えたって、
きっと、望む結果になんて、なりようがない。

地球を壊したいぐらい悲しかったけれど、
どっちにしても、
じいちゃんは亡くなることになります。

11才の子どもだったぼくに、
他にどんな「やりよう」があったか。

つい、大人になった今の自分の頭で、
「本当はこうすべきだった」なんて、考えてしまう。
でも当時、11才だったことも、
無知で無力だったことも、変わりはしない。


だったら……

ぼくの後悔の正体は、
「勘違い」なんです。



■ 「あの選択だったから育つもの」の話

最後に、もう1つ。

ぼくが今、整体師である理由です。
いくつか、強い動機があります。

特に、
ぼくが「重い病気の人でも、あきらめない」のは、
じいちゃんのおかげというところが、大きい。

あの頃、何か1つでも、
自分にはできることがなかったのか……

その「念」が、
もはや「念力」のようになっているから、
今のぼくがある。

ただの整体師ではなく、
「ヤケにあきらめの悪い整体師」でいられる。


そう考えたときに、思い出すこと。

昔、栄えた巨大文明は、すべて川沿いです。
「川が大洪水を起こすことで、破壊がなされるものの、
 それによって土地が肥えるから」、
巨大な文明が成立したそうです。


「それしかなかった選択」
「選びようがなかった悲劇」

のあとに、

「そうだったからこそ宿るもの」
というものが、あるのでしょう。

もちろん、
かといって、悲劇が悲劇でなくなるわけではない。

でも、
悲劇を「ダメだったこと」だと一面的に断定するのは、
失われた人やものたちに、
もっと顔向けできないことなんです。

「そっちのほうが、じいちゃん、悲しむわな」
って話ですね。


■ 書いてみないと、わからないこと

ぼくが、
後悔の勘違いに気づけたのは、
いちから考え直してみたからです。

今回、こうやって文章にしたことで、
また新たに実感した部分もあります。

あなたにも、きっと、そういうことが、あると思うんです。

たとえば、具体的にやるとしたら……

1)後悔していることのタイトルを書く
2)後悔している行動を書く
3)2の横に「こうすべきだった」と思うことを書く
4)3の項目の隣に、当時、本当に「実現可能」だったものに「○」、
  冷静に考えて実現不可だったものに「×」を書く
5)4の実現可能(○)だったことについて、
  本当にそうしていたとして「現実的に、その後、どうなりそうか」
  という【通常予想】を書いてみる。
6)4の実現可能(○)だったことについて、
  本当にそうしていたとしても、「下手すると、どうなってしまっていたか」
  という【悪く働いた予想】を書いてみる。
7)全体的に比較してみて、考えてみる


みたいなことかな。


ちょっと重い作業だから、
「必ずやってね、今日中ね!」
だなんて、言えません。

でも多分、とても大切な儀式です。

後悔していることの、その後悔……
もしかしたら、勘違いじゃないか。

当時のあなたにとって、
本当に「それしかなかった」んじゃないか。


おそらくですが、
そういった後悔の「消化」……もっと言えば、
「後悔を成仏させる」という行為には、
予想を超えた大きな意味があります。



くりかえしになるけど……

ぼくらは後悔するとき、
「結果まで知っている冷静な自分だったら」
違った判断をしたはず……と考えがちです。

でも、そうじゃないよね。

そんな「もしも」、ほんとうは反則技なんです。

どこかできっと、
後悔という「痛み」を使って、
悲しみを少しでも「ごまかしている」のかもね。

でも、時間がたって、
もう、そうする必要は、終わっているはず。
不必要な痛みだけが足かせに残っているる過去が、
けっこうあるはずです。


今すぐ取り組むかどうかはさておき、ね。

いくつか取り組んで、
わかった結論だけ、
もう一度、書き残します。


後悔の9割は「勘違い」である。

手放していい痛みが――
「その人の」のためにも手放したほうがいい痛みが、
きっとあるよ。


ではでは、くれぐれも、お大事に。
ぼくだって大事な人の「後悔の原因」には絶対になりたくない。
……そんな風にも、思いました。