5才の夜。
ぼくは「自分の冒険」を始めることに、決めた。
※この文章は、前回の続きです(前回は↓こちら)
『 ぼくは「迷子になると死ぬ」と思ってた 』
https://www.rakuyuru.jp/entry/2022/01/11/173000
保育園で親の「お迎え」を待つ
気の遠くなるような時間が、イヤでイヤで……
何とか「自分で帰れる」ようになりたい。
ただ、もしその途中、
ひとつでも道を間違えて迷子になれば、
その先にあるのは「ゆくえ不明」であり「死」である。
(と、思い込んでいた)
めちゃくちゃ怖い。
どうしたらいい?
考えて、
考えて考えて、
どう考えても怖くて、
やっぱりやめようと思って、
一回忘れて、
しばらくファミコンをして、
焼きそばを食べて、
いったん寝て、
でもトイレにいくと思い出して、
しかし想像すると怖くって、
でも次の日の「お迎え」がまた遅くて、
また泣いて悔しくてさらに泣いて、
諦められなくて、
考えて……
この苦しいのがずっと続くぐらいなら、
いったん「だいぶ苦しい」のを何とか急いで
通り過ぎたほうが、たぶん、マシなはず!
真っ暗な布団のなか。
けんめいに固めた気持ちがゆるまないように、
右手をグーにしてめいいっぱい力を入れながら、
決めた。
ぼくは、やる。
○○○
そして次の土曜日、まだ明るいうちに、
計画を実行に移した。
ばあちゃんに手を引かれて
何度も通っている保育園だから、
だいたいの方向は、わかる。
でも、
途中で記憶があいまいな分かれ道がいくつかあって、
そこには何があるか、わからない。
(バミューダ・トライアングル的なものや
アウター・ゾーン的なものがあるかも知れない。
富山県にはたぶん、全国平均より多い感じがする)
だから、まずは、
確実に安全なぼくの家から始める。
(急に保育園から帰ってみる、というチャレンジは
冷静に沈着に考えて、死亡リスクが高すぎるため)
うちから歩いて2分ぐらいのところに、
駄菓子屋のヒロハタさんがある。
ここには、何度も自分で遊びに来た。
(りんごのジュースがうまいお店だ)
保育園にいくときには、あのお店の前をいつも通っている。
だから「間違いない」はずだ。
あそこまでなら、安心して行ける。
……問題は、その先だ。
このお店より遠いところに、
ひとりで行ったことが、まだない。
なんとなく保育園の方向はわかる。
先のほうを見る。
でも、見慣れたものは、何もない。
なぜだろう?
いつもぼくは、ぼくの少し前を歩いてくれる
ばあちゃんの手ばかりを見ていたんだろうか……
未知の場所は、それだけで、冷たく見える。
心細い。
でも、ここでやめたら、
またあの苦しい時間をくり返すことになる。
のりくんの前で泣くのも、
また心配されてしまうのも、
そのあとでさらに泣いてしまうのも、もうイヤだ……
とにかくぼくは、
キョロキョロきょろきょろ、行き先のほうを見る。
何かしらヒントを探すような気持ちだったんだろう。
誰もいない。
知ってるお店もない。
でも――
あ!
ポストがある……
あの赤いポストは、覚えておきやすい感じがする。
あのポストが見える場所までだったら、
歩いて離れていっても「戻ってくることができそう」だ。
それに、あのポストまで行くことができたとしても、
そこから「線路のほう」を振り返るだけで、
自分の家があるはず。
自分で帰れるはず。
じゃあ、あのポストまでは「ぼくにだって安全」だ!
胸のあたりが熱い。
なんてすごい発見をしたんだろう。
知らない場所の中にもし
「知っている部分」が少しでもあれば、
それが目印になる。
そこに行ってみることも、
怖ければすぐそこから帰ることも、できる。
だったらぼくは「そこまでなら」行ける!
ずっと重たくて苦しい感じだったお腹が、
ちょっと楽になる。
かわりに、もうすぐウルトラマンが始まるときみたいな、
両脚が急に軽くなって飛び上がりたいような気分。
歩く。
10歩ほど歩いては、振り返る。
さっきいた「ヒロハタ」さんを見る。
大丈夫だ。
また歩く。
20歩、進む。
振り返る。
キョロキョロする。
他にも目印がないか、よく見る。
家はたくさんあるけど、どれも似ている。
……そうか、似ているものじゃ、ダメなんだ。
あ、大きな木がある!
他よりもずっと大きい。
じゃあ、ヒロハタさんと、赤いポストの間には、
この大きな木があるんだ。
いいぞ……
これなら、遠くからでも、見えそうだ。
ひょっとしたら、うちからでも見えるかも知れない。
そうか、じゃあ、
ヒロハタさんのところが「もし無くなっても」、
(↑この想定はおかしいけれどw)
この木を目指せばいいんだ。
30歩、40歩……
ぼくは、ついに赤いポストまで着いた。
なんとなく、ポストを手でさわる。
両手でさわる。
少しヒンヤリして硬い。
そういえば、ポストをさわるなんて、はじめてだ。
振り返ると、ヒロハタさんの家が遠くに小さく見える。
さっき見つけた大きな木が、あそこにある。
うれしい……
ポストから手が離れないように気をつけながら、
何度かジャンプしてしまう。
別にポストなんて使ったことも意識したこともなかったけど、
なぜか好きになったような気持ちだ。
ここまで来る途中に、
何度もなんども周りを見渡したからか、
なんとなく、このあたりの町の感じが、わかってくる。
ぼくが知っている目印もできた。
そしたら、どうしてだろう。
さっきまで「冷たく見えた」はずだった通りが、
そんなふうでもなくなっている。
ぼくはもう、ここまでなら怖くない。
何度だって自分で来れる。
「自分でいけるところ」が、増えた。
「自分で帰って来られる範囲」が広がった。
それはつまり、
「迷子にならずに済むエリア」が拡大したということ。
そうか。
「こう」すれば、良かったんだ……
ぼくは、
自分にはできそうもないと思っていたことができた興奮で、
なんどもなんどもキョロキョロした。
目に入ってくるのがぜんぶ、うれしかった。
どれもこれも、さっきまでと違う。
家も、塀も、犬も、花だんも、よごれたポスターも、
よそよそしい敵のような顔をしていたのに、
今はぼくのためのヒントだって思える。
「この町」を、悪くないと思う。
「外の世界」を、少しだけ好きになる。
同じ道を、ばあちゃんに手をひかれて
何回も歩いているのに、
「こんなふう」には、一度だって、ならなかった。
ぼくが自分で見て、
自分で考えて、
自分だけで歩いたから、
こんなにうれしいことがあったんだ……
気がつけば、もう太陽が赤っぽくなっている。
暗くなると目印が探せなくなるかも知れない。
それは危ない。
冗談じゃなく、危ない。
今日はもう帰ろう。
保育園が、まだまだ遠くなのは、なんとなく、わかる。
でも……
ぼくの冒険は、成功した。
踏破したのは、
何の変哲もない赤いポストまでの、道。
距離にして300mぐらいのものだろう。
でもぼくは、あの景色を忘れることができない。
あの喜びが今でもお腹の奥にあって、
いつでも取り出すことができる。
その後は「ワクワク」がぼくを動かした。
怖さはやっぱりまだ、ある。
それでも「やり方」は、もうわかったから。
つぎの月曜日、朝。
ばあちゃんに手を引かれて保育園に向かうとき、
ぼくは今までのぼくと、違った。
見る。
たくさんたくさん、見る。
ぼくがよく知っているポストを通り過ぎてから、
次の目印を、ひたすら探す。
オロナミンCの看板があった!
あ、この酒屋さんはじいちゃんと来たことがある。
オオヒラさんというんだ!
この川は、保育所の近くまでずっと流れていたはず……
あとはもう、こっちのものだった。
○○○
次の土曜日。
ばあちゃんと一緒にいるときに見つけた「目印」を、
ひとりでいるときに、辿ってみる。
オロナミンCの看板まで行ってから「大きな木」を振り返る。
「よし、ここまでは大丈夫」
オオヒラの酒屋さんまで行ってから、オロナミンCの看板を振り返る。
「うん、ここまでは大丈夫」
「けんけんぱ」をするように、
知っているところと知っているところを、つなげていく。
次は、川だ。
少し遠い。
すると、
川を探しているうちに、オオヒラの酒屋さんを……見失う!
「やばっ!」
一瞬で背中にジーンと嫌な感じがわいてきて、
顔が変に熱くなる。
……でも、まわりをちゃんとよく見て、
来た道をそのまま戻る。
あの酒屋さんが、やっぱりちゃんと、ある。
ホッとする。
そうか、
わからなくなったら「元の場所に戻ればいい」のか。
それを何度か、繰り返す。
そしたら、
「目印が常に見えていなくても大丈夫」になった。
そんな小さな小さな冒険に、4回ほど出かけた。
「今日はどこに行くの?」と母さん聞かれても、
「ちょっと!」としか、答えない。
これはぼくが、ぼくだけでやらないといけないことだから。
たしか、数週間後のことだっただろう。
ぼくはついに、
自分だけの脚で、南部保育所に辿り着いた。
すごい……
いつもと違って、誰もいない。
先生もいないし、おともだちもいない。
そんな保育所を見るのも、はじめてだった。
その新しさのすべてを、
ぼくが見つけたんだと思った。
それからぼくは、二度と泣かなかった。
「お迎え」が遅くても、もう大丈夫。
(もちろん、
他の理由では、たくさん泣いたけれど(笑))
お迎えの時間、
おともだちが半分ぐらいまで減ったら、
「先生ぼく、自分で帰るね」といって、
さっさと帰ってしまう。
怖さや寂しさがしのびよって来る前に。
「あの角」をずっと眺めて
迎えを待つだけだった時間が
ぼくを捕らえることは、もうない。
それはほんとうにほんとうに、うれしかった。
○○○
「のりくん、一緒に帰る?」
あるとき、ぼくは一度だけ、声をかけた。
いつもぼくと「最後のほう」まで残っていた、のりくん。
ぼくが先に帰ってしまえば、
きっと、いつもいつも、のりくんが最後のひとりになってしまう。
ぼくだったらそれは、耐えられない。
急にそれに、気づいたときだった。
「んーん、ぼくはだいじょうぶ。
たかちゃん、またね!」
のりくんの顔は、いつも通りだった。
ニコニコしていた。
羨ましそうでも、寂しそうでも、
何かを我慢しているようでも、なかった。
ただただ、やさしい顔。
そういえば……
「お遊戯室」で待つこともできたのに、
いつも彼は、ぼくの隣、
お迎えの道がよく見える場所にいた。
その理由は、
彼だってお迎えが待ち遠しかったからだったのか。
それとも、もしかしたら、
ぼくの隣に、いてくれようとしたのか……。
どこまで、わかってくれていたんだろう。
それから、
ぼくはたまに「のりくん」と最後まで残ったりした。
「心配になったから」というおせっかいで
自分勝手な理由だったが、
同じような時間と場所なのに、前とは違った。
ぼくは泣くことがなくなった。
先生がぼくを慰める必要も、なくなった。
のりくんと、おもちゃで遊ぶ。
ぼくはもう、好きなときに、
自分で帰ることができる。
それが体でわかっただけで、
前まで感じていた怖さは、
不思議なほどさっぱりと、消え去ってしまった。
一緒にいてくれるのりくんに
申し訳ないような気持ちだったのも、今は無い。
ぼくらは前より仲良くなった。
地獄のようだった時間が、いまはただ楽しい。
この頃のぼくはまだ知らなかったけれど、
数年後ぼくは、のりくんとソフトボールで
バッテリーを組むことになる。
そして、
数十年たった今でもぼくは、
「怖いことに挑戦するときは、ああすればいいんだ」と、
あの300mの冒険のことを思う。
のりくんが笑いかけてくれた顔が、目に浮かぶ。
安全をまず確保する。
安全な範囲から「少しだけ」外に出る。
戻りたくなったらすぐ戻れることを、知っておく。
いったん本当に戻るのも、あり。
安全な範囲外に「知っている目印」を1つずつ、増やす。
安全な範囲外の「体験時間」を少しずつ、伸ばす。
自分と「外部」を馴染ませる。
いつしか「安全範囲」そのものが、拡大する。
そしたらまたぼくは、
「もう少し遠くまで」行ける。
そのくりかえし。
ただその、くりかえし。
小学校でも中学校でも高校でも大学でも社会でも、
田舎でも都会でもタイでもイタリアでも、
ベンチャー企業でも整骨院でも出版業界でもYoutubeでも、
ぼくはずっと、そうしてきた。
今でも苦しいときには、
「待つしかないと勝手に思い込んでいないか?」
と自分に聴く。
「どこまでが安全な範囲だろう?」
「どこまでなら、安全を確保したまま挑戦できるか?」
と自分に問い直す。
そしてぼくは、ぼくの冒険をはじめる。
5才のときと、大して変わらない気持ちで。
○○○
安全な場所に留まっていては、かえって危ないときもある。
それは理解できる。
でも、危険に立ち向かうのは、当たり前だけど、危険だ。
そんな両極端な声に、
板挟みにされるのではなく……
ぼくらはただ「安全範囲を拡大していく」といい。
安全と危険の「はざま」をよく見て、
そのはざまの中に、
自分が「まずは、あそこまで」と思える目印を、探せばいい。
ぼくは、挑戦者といえるほど、カッコいい人間ではない。
どちらかというと、臆病者だ。
それも、かなりの。
5才より前から、ずっと。
ただ、ぼくは一般より少し、待つのが苦手だ。
怖がりのくせに、怖いのが耐えられなくて、
とにかく何とかしたい。
だから、クヨクヨしたあとにウロウロして、
モソモソとアレコレを始める。
全力で安全を確保しながら、冒険する。
そしたら、冒険の喜びを、知ってしまった。
そうやってぼくは、
「臆病な挑戦者」になった。
この数年後、
ぼくが「迷子を完全に克服する」ときが来るのだけれど……
それはまた、別のお話。