「永井先生は、
才能と努力、どっちが大事だと思いますか?」
そんなご質問を頂きました。
……ええ、
もうネタはあがってんですけどね(笑)
今のぼくの答えは、
「どっちでもねえ!」です。
なぜってね、
才能より努力より大事なものが、
ぼくにとっては、明らかだから。
その大事なものというのは……
工夫
ぼくは、
これが一番大事だと思うんです。
もちろんというべきか……
社会人の新人ぐらいまでは、才能のある人を羨みました。
最初のスタートから、めっちゃ「できる」からね。
そして、努力で追いつこうとしました。
でも、それが続かないことが、多かった。
だから正直なところ、
ぼくは才能にも努力にも挫折をした。
その後で「工夫」という
3つ目の選択肢にたどり着いた。
だからこそ、
「より誰にでも、武器になりうるもの」は、
工夫だと思うんです。
○○○
かなりやっかいな問題として、
才能も努力も、けっこう、扱いが難しい。
たとえば……
まず、才能について。
才能に溺れる人って、たくさんいます。
(調子に乗って歪んだりね)
飽き性とか、努力が苦手になったりするケースもある。
もっと大きな才能に出会ったときに、心が折れる人も多い。
挫折に弱かったりね。
次に、努力について。
「努力することができるのも才能だ」なんて言われるほど、
継続した努力ができることは、レアです。
ただ……ざんねんながら「報われない努力」というのも、多々あるよね。
(ムダになるとは限らないけれど)
つまり、才能も努力も、
何かがうまくいくことを約束してくれるものでは、ない。
じゃあ、工夫はどうか?
ぼくは「圧倒的に報われやすい」と思います。
才能よりも、努力よりも。
なぜなら、工夫の本質って、
「自分用にする」ということだからです。
そのままでは使いにくい理論や方法論を、アレンジする。
または、もとの自分のままでは使いにくい理論や方法論に
合わせるように、自分の考え方や使い方のほうを調整する。
才能のように、諸刃の剣ではない。
努力のように、迷子になりがちでもない。
工夫ってきっと、
自分と相手(対象)の距離を埋めるチャレンジなんです。
「まわりや自分をよく見る」ことが前提になるから、
結果が歪みにくいのだと思います。
あとね、
極端なケースでいうと……
●1.成功は、才能次第
●2.成功は、努力次第
●3.成功は、工夫次第
という3つの考え方……というか世界があったときに、
どの世界がもっとも「不幸な人が少ない」か。
ぼくはやっぱり「3」だと思うんです。
才能は無いと思っている人も多いし、
努力はできないと思っている人も多いから。
○○○
もちろん、
「工夫なんて難しい」と感じる人も、いるでしょう。
でもね……
● 使いやすい場所にティッシュを移動してみる
● 探しやすいようにリモコンの置き場所を決める
● 同じ服ばかり着ないように、今日来た服は
タンスの一番左に入れていく(右が最近着てない服になっていく)
● トイレットペーパー、シングルとダブル、どっちがいい?
● コンソメスープは多めにつくって、次の日、カレーにしよう
● 10秒吐く呼吸法はきついから、まず6秒から始めよう
● もうちょっと自分に合うヘアスプレーを探そう
● しょっぱいポテチと甘いアーモンドチョコの組み合わせって、
終わりがなくない?
● 柿の種の歯ごたえ × 黒棒の柔らかさって、もっと無限じゃない?
工夫って、そういうことです。
それこそ「生活の工夫」って言葉が、あるでしょう?
でも「生活の才能」とか「生活の努力」とは、
言わないよね(笑)
ちいさな小さなことでいい。
才能も努力も「問われない」ような、変更。
そんな
「より自分がやりやすくなる微調整」や
「より自分が喜ぶような微調整」を、
生活だけじゃなく、仕事や、目標達成にでも、
やるかどうか、だと思うんです。
○○○
たとえば、
「酒に合う、美味い上に太らない食べもの」を探す工夫なら、
いくらでもできる人って、いるんです。(ぼくとかね)
スーパーやらコンビニやら「やまや」やらカルディやら
Amazonやら楽天やらふるさと納税やら どこだろうが、
嬉々として探す。
血眼で探す。
つまりぼくは、
「より良いもの探し」という行為は、楽しい。
だったら、
「より気持ち良くて、よく効く上に簡単な施術法」を
探すという工夫も、
【通販とほとんど同じ気持ち】でやれる。
本屋やらセミナーやらDVDやらYoutubeやら
町の整体屋やら地方のゴッドハンドやら なんだろが、
嬉々として探す。
血眼で探す。
その「心のツボ」の発見も、工夫なんです。
○○○
ぼくは本当に残念なことに、
整体にものすごい才能があるわけでは、ありません。
(技術の習得や開発がぼくよりすごい人はざらにいる……)
じゃあ、整体について、なんでも頑張れるほど
努力ができる人間か?
恥ずかしながら、答えは「No」です。
でも「部分」なら、ある。
整体という大きなカテゴリーの中で、
「まるで趣味のように取り組める部分」は、ある。
考えてみれば、そういう、
「この部分なら、自分も熱中できる!」
というポイントばかり、探してきたみたい。
その結果、1つずつ発見したものが、
「より良いもの探し(リサーチ)」だったり、
「より簡単にするゲーム(編集)」だったり、
「よりわかりやすく説明し直すゲーム(通訳」だったり、した。
だからそれらすべてが、
ぼくの才能や努力を大きく超えて、
情報発信や独立、出版という結果に、つながった。
ぼくに多くあったのは、才能や努力ではない。
「工夫」です。
飽き性でメンタルも特に強くないぼくでも、
「継続できる部分」を、探した。
正しいとされている成功法や、
人気のテクニックなどに、この身や時間を投じる前に、
「もっとぼくに合うもの」に、こだわった。
それが、良かったんだと思うんです。
○○○
さっき、
「継続した努力ができることは、レアです」
と言いました。
ぼくは、ここが大事だと思ってる。
「努力できる人」がレアなのでは、ない。
「努力できること」が、レアなんです。
この違いを、忘れちゃいけない。
だって誰にとっても、
「努力とも思わずに継続できる分野や部分や作業」
ってものが、あるはずなんです。
それは、
植物のお世話をちゃくちゃくと続けられることでも、
特定のフィギュアを集めることでも、
実はぬか漬けをやっていることでも、いいんです。
本人にとっては何の苦労もないけれど、
他の誰からからみたら、
「マネができない努力」だったりすること。
それと似た気持ちを持てる「部分」を、
自分が望む別分野でも、探せるか?
自分が望む分野の「一部分」を、
「好みの作業感に寄せる」ことが、できるか?
それが、工夫だと思うんです。
工夫って、さっきも書いた通り、
「自分と相手(対象)の距離を埋めるチャレンジ」です。
だから、報われやすいんでしょう。
すごい工夫ではなくたって、
少しずつ、目指すものに近づくことができる。
その過程で、
あっちとこっちを自然と確認する回数が増えるから、
自分がもっとよく見えたり、
相手や対象が、もっとよく見えたり、する。
「得るもの」が結果以外にも、ある。
だから、面白い。
だから、続けていける。
だから、蓄積が多い。
そんなことを、ちまちまちまちま繰り返していたら、
才能があるように勘違いされたり、
努力家だと勘違いされたりするようになって、
5年、10年するうちに、
目指していた場所に、辿り着いたり、する。
ぼくは、そうでした。
そして、
ぼくが思う「特別なプロになった人」たちも、
そこは似ている感じがします。
だから……だと思うんです。
ぼくの整体スクールでは、
けっこう特別な才能や長期間のトレーニングが要求される
ようなテクニックでも、
参加者全員が「その日中に」使えるようになります。
ここは正直、ほんとうに自慢したい(笑)
そうなれた理由は、ぼくの凡庸さです。
「才能でやれてしまう」なんて体験が一度もないもんだから(笑)、
コツを聞く。
それでダメなら上達法を聞く。
よくある間違いを自分でやる、人のも見る。
「そこは感覚だよ」と言われても、感覚の再現法まで聞く、探す。
「下手でもやれる方法」をくどくどクドクド、考える……
そういう全部を経て、
テキスト(言語)にしてきた。
説明可能じゃないと、再現可能とはいえないから。
そう、
多分この「再現可能」ってとこが、すごく大事でね。
才能は、他人に渡せない。
努力は、他人に強いることができない。
でも工夫なら、人に分けてあげることもできるんです。
さて、まとめとして、
最初の問いに、戻りましょう。
「永井先生は、才能と努力、どっちが大事だと思いますか?」
答えは「工夫」です。
(質問には答えてないけど(笑))
工夫は、低くない確率で、才能を超える。
努力を、苦もなく「わがもの」としてしまう。
ぼくはそんなふうに、見ています。
工夫グセを、大事にしよう、育てよう。
ではでは、今日もお大事に!
たまったテレビの録画番組を消すようなノリで、
不要な作業や仕事や目標や見栄を、省いていくのさ。