下手なたとえでスマンけど、
承認欲求なんて「夜景」みたいなもんだよ。
イメージとしてはさ、
自分なりに頑張れる場所があったとして……
ある程度高いところまで、そこの山を登る。
ひと息ついてあたりが薄暗くなるころ、
周りを見渡すと、今まで気が付かなかった光がある。
こっちを見てくれているように思える。
自分にスポットが当たって、認められた感じがする。
うれしい。
でも、ぼくらは忘れちゃいけない。
その「光のほう」は、降りる方向だ。
その光を目標にしてしまうと、
山頂からは遠ざかる。自分の道ではなくなる。
そして何より、
夜景の光が目立つのは、夜だからだ。
自分の中に影や疲れがあるときに、つい欲しくなってしまうもの。
その気持ちは自然なものではある。
ただ、それを追いかけてはいけない。
弱ってるとき、間違いやすいときにこそ、
「いいね」が欲しくなる。
承認に飢えてしまう。
でもその光は、たまにチラッと見て癒されるぐらいがいい。
ほどよい距離のままでいる。
そして、その明かりを背中に思いながら、また自分の山を登る。
「あとに取っておくちょっとした楽しみ」にでもして、
両目はあくまで山頂に向ける。
足元をたしかめて、歩みを進める。
そうすれば、もっときれいな夜景を、
もっと遠くから広く、見られるようになる。
承認欲求はきっと、離れているから、楽しめるものだ。
「遠くにありて、思ふもの」だ。
なぜって……
その逆をするとどうなるか?
夜景ばかりを気にすれば、道に迷ったり、
気づかないうちに、山をくだってしまったりする。
すると、見える光は、みるみる減っていく。
接近できた光の正体だって、
ただの民家だったり街頭だったりビルだったりする。
もしもうまくいって、
追い求めた承認を得られたとしよう。
それでも、恐ろしいことに、
「他人からの承認を強く必要とするような自分」を
承認することは、すごく難しい。
自分で自分を承認できなくなる。
つまり結局、承認欲求を追ってしまうと、
思うような承認は得られなくなる。
皮肉なことだけど、そんなもんだよね。
だから、
きれいな夜景を守るためにも……
もっというなら、
特別ではないはずの昼間の景色を
美しいものにしていくためにも、
山頂をめざす。
はっきりしなくても、
あいまいでも、
何も約束されてなくても、
自分の頭で「自分なりの山頂」を思い描く。
個人的に楽しかったり、
個人的に意味を感じたり、
個人的な直感に響いたりするものがあるなら、
それを信じて……
または「信じたこと」にして、
何の変哲もない足元をたしかめて、歩く。
そういう
「誰の承認も求めない時間の堆積」が、
ぼくらを落ち着かせる。
承認欲求のワナや重りをはずしていく。
やがて、本物の承認がそそがれる高みに連れて行く。
うん。
なんか小難しい話をしちゃったかも知れないけど、
要するに、
「やたらモテたがってるやつは、モテない」し、
「やたら売れたがってるやつは、売れない」。
いにしえから、ずっとそう。
……って話だよね。
最初からそれを言えば良かった気もする。
ただ、自戒もこめて。
「早くたくさん欲しがる」ことで、
望みから遠ざかるどころか身を滅ぼすような悲劇が、
ひとつでもふたつでも、減りますように。
ではでは、今日もお大事に。
「SNSで褒められそうなこと」よりは、
「じいちゃんに褒められそうなこと」を追うほうが
精神的にも社会的にも経済的にも、よほど良いかも知れない。