楽ゆる式◎セルフケア整体

心と体が楽になるコツ。辛い症状・病気を自分で治したい人へのヒント。 ----- by 楽ゆる整体&スクール代表 永井峻

「ぼくにだけ見える面」と「ぼくには見えない面」


おじさんが亡くなりました。
それで急遽、富山に帰ってました。

そんなにたくさん会う機会はなかったけど、
ウソのない、とにかく話しやすい人でした。

 


「慣れない町を歩くときは誰にも背中を見せない」
というぐらい人見知りだった、ぼく(ほぼ忍びのもの)。
そんな子どもの頃のぼくを、そのおじさんはなぜか、
まったく警戒させなかった……

「おいタカシ、Xファイルって知っとるか?
 あれは本当に面白いぞ。何が面白いかって、
 モルダーがな……」

ものすごいマイペースで、話しかけてくれる。

かと思えば、
「最近英語の授業はどうなんよ? 先生はわかりやすく
 教えてくれるか? 」
といって、ぼくの話も聞いてくれる。
(彼は英語の塾講師でした)

そういうときのおじさんは、
本当に興味をもってくれているのがわかる顔をしていた。

ぼくのまわりの大人は、質問自体にはあまり意味がない、
「子ども相手の決まり文句」を言ってくることが多かった。
「大きくなったな? 学校は楽しいか?」などなど。
そして、ぼくからの返事を、そんなにちゃんとは聞いていない。

それをイヤだとは全く思わないけれど、
そういう大人たちとおじちゃんは、ぜんぜん違っていた。

そんなことを思い出していたら、今回はじめて気がついた。
ぼくが物心ついたときから彼は、
ぼくのことを1度だって「子ども扱い」したことがない。

それがぼくには、すごくうれしかった。


お通夜や葬儀のもろもろの合間に、
親戚のみんなが、彼についての色んなエピソードを
話している。

超がつくほど、キレイ好きだった。

10円安いバナナのために隣町まで車を走らせる人だった。

町で偶然あった塾の卒業生が喜んで駆け寄ってくるほど
人気講師だった。

実の父親と殴り合いのケンカをするほど激しいところもあった。

どんな悩みごとでもいつも丁寧に聴いてくれる、生粋の紳士だった。


そうか、そうか……


そういう小さな実話のひとつひとつが、
「らしい」と言い合って笑えるものだったり、
意外過ぎて耳を疑うものだったりして、
なんて面白いんだろう。

亡くなった後だから気楽に話せることたちも、ある。
でもぼくは、そういう時間を経たことで、
ますますおじさんのことが好きになった。


……どうしてこれが、生前にできないんだろう。


ぼくには、ぼくだけが知っているおじさんの顔がある。
だからこそ、ぼくじゃない誰かだけが知っている、
おじさんの別の顔がある。

一定以上に親しい人たちに
一定以上の期間、ずっと見せてきた顔たちなんだから、
どれも「仮面」と呼べるほどに浅くはない。

そのどれもを含めたミックスが、おじさんの正体だ。

きっと同じような面白き複雑さが、
ぼくの父にもあったろう。
じいちゃんにもあったろう。
ばあちゃんにもあったろう。

奥さんにもあるだろう。
おかんにもあるだろう。
兄にもあるだろう。
ぼくにも、あるだろう。


ぼくの角度からは、ぼく側の顔しか、見えないもんね。

当たり前のことなんだけれど、すぐに忘れてしまう。
「あの人はああいう人だ」と、
ぼくの目だけを頼りに、決めるつもりもなく決めてしまう。

それはたぶん文字通りに、
(何かが)死ぬほどもったいないこと。


まあもちろん、
「知らんでいいこと」も、たくさんあるでしょう(笑)

でも、
誰にでも、ぼくらにも、
「ふつうに見てる分にはわからない奥行き」や、
「自分でも気づいてない深み」があるんだと信じておきたい。

その信念はたぶん、
自分や他人や、その絆がもつ可能性を無自覚に殺してしまうリスクを、
大きく減らしてくれるんじゃないか。


そう考えたら、
新しい自分を探すより、
新しい自分をつくるより、
気づいてなかった自分の顔を誰かに教わるほうが、
収穫が多い……なんてことは、よくある話でさ。


だって、
うちに来るお客さんを見ていたら、本当に思うんです。

「本人の可能性を、他の誰よりも、本人が忘れてる」

ってね。


今回、
ますます好きになったおじさんを見送ったことで、
その家族の面々を大事に感じる気持ちが
体の奥でムックリと育ったような感覚がありました。
夜に海が無言で水面を上げるような……

お葬式って、そういうものなんだろうね。


ではでは、今日もお大事に。
「磨き残し」を探すという営みを、
自分のクセにしていけたらいいんだろうなあ。