楽ゆる式◎セルフケア整体

心と体が楽になるコツ。辛い症状・病気を自分で治したい人へのヒント。 ----- by 楽ゆる整体&スクール代表 永井峻

自由の「生みの親」について


切り分ける。


わたしは、わたしの感情ではない。

 


頭の回転がとまるほど腹が立ったり、
他のこと全てがどうでもよくなるぐらい
悲しかったりしても、
それに「溺れ切らない」という選択肢は、最後まで、ある。
少なくとも大抵、
感情の波がひくのを待つことは、選べる。
多少その波に動揺することはあってもいい。
ただ感情だけを理由に(まるで「それしかない」ような気分で)
大間違いを選びとることは、防げる。
わたしとわたしの感情との距離感を、保てる。


わたしは、わたしの性格ではない。

ドジで面倒くさがりで怖がりで
神経質かつ夢見がちではあるけれど、
「少しポンコツな車にも扱い慣れてゆく」ように、
自分を運転してみることは、できる。
自分の運転マニュアルをつくっていくことも、できる。
なかには、「自分の運転免許」を持っているような人さえ、いる。
(そういう人は高い確率で、魅力にあふれている)
もちろん、すぐ「そう」はできない。簡単ではない。
けれど、性格をなんとか乗りこなそうと思っているだけでも、
「そっちのほう」には、向かえる。
そうすれば、
ドジで面倒くさがりで怖がりで神経質かつ夢見がちでも、
ドジで面倒くさがりで怖がりで神経質かつ夢見がちな生き方には、
ならないで済む。
わたしとわたしの性格との距離感を、保てる。


わたしは、わたしの脳ではない。

暗い考えが頭の中を埋め尽くして止まらないようなときも、
自分の時計だけが止まっていると感じるほど
ボーッとして思考が働かないときも、
歩いたり寝たりストレッチしたりすることは、できる。
思考とは全く別に、体を動かすことは、大抵できる。
そして、思考とは違う体の動きによって、
脳はその思考のトーンを、変える。
勝手に変えてくれる。
そうなれば、
頭の中がどんなに暗くて黒くて散らかっていても、
少しずつ秩序は回復される。
「掃除ができる状態」になっていく。
わたしとわたしの脳との距離感を、保てる。


わたしは、感情ではない。
わたしは、性格ではない。
わたしは、脳ではない。


同じように。

わたしは、才能ではない。
わたしは、環境ではない。
わたしは、生まれでもない。

「わたしなんか」とついつい否定する思考でさえ、
「わたしそのもの」ではない。

もちろん、
感情も性格も脳も才能も環境も生まれも、
おどろくほど強い影響力を持っている。
それは、わたしも知っている。
恐れてもいる。

それでも、わたしは「それら」ではない。

それらの意のままになるほど、単純ではない。
それらに全く抗えないほど、弱くはない。

わたしを決定づけるものは、そんなものではない。


切り分ける。

切り分けた……ことにする。
(その設定を「覚悟」と呼んでもいい)


切り分けるから、距離ができる。
距離があるから、ちゃんと見える。
ちゃんと見えるから、きちんと扱える。
支配はできない。ただ、支配されはしない。
操作まではできない。ただ、操作されないように、
切り分ける。


その対象が、
自分のなかのことだろうと、
自分の外のことだろうと、
ほんとうは、同じ。

感情や性格や思考は「自分の中にいるプレイヤーたち」だ。
家族や同僚や友人や知人は「自分の外にいるプレイヤーたち」だ。


感じるよりも反応するよりも考えるよりも
才能や環境を問うよりも前に、
切り分ける。



ぼくらが考えたり感じたり学んだりする本当の目的は、
その「区別」をより正確になすためなんじゃないか。

よりよく離れるために。
よりよく近づくために。
より心地よく、互いに、息をするために。

自分と、自分によく似た付属品を、切り分ける。

自分本体に見える「このわたし」の頭の中の、
その操縦席に座っている「監督的なわたし」を
イメージしてみる。

「そういうわたし」が、いることにしてみる。
(やはり、その設定を「覚悟」と呼んでもいい)

やがては、
その監督なわたしや肉体的なわたしさえ
少し上空から見ているような「神様的なわたし」を
設置してみてもいい。


自由ってそんなふうに、
「区別」の子どもとして、生まれるものなのかも。


なぜかって……
「様々な区別」ができていないときに限って、人は、
ものすごく不自由な顔をしているから。


ではでは、今日もお大事に。
影響をより良く受けるための学びもあれば、
影響をムダに受けないための学びもあるね。