楽ゆる式◎セルフケア整体

心と体が楽になるコツ。辛い症状・病気を自分で治したい人へのヒント。 ----- by 楽ゆる整体&スクール代表 永井峻

「自分に勝った」としたら「敗者も自分」になるよ?


「自分に勝つ」
「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……」

そういう考え方が、苦手だ。

昔ぼく自身も抱えていた「重り」なだけに、
ほろ苦くて、酸っぱい。

たとえば、先日も、

「結局、自分に勝てなくて……
 健康法もやりたいことも、続かないんです」

と悩む患者さんがいた。

そう感じる気持ちは、わかる。
でも、ズレてる。

本当は、
「自分に勝てないから、続かない」んじゃない。
「自分になんか勝とうとするから、続かない」んだよね。

ここは人生レベルでの間違いが
起きやすいポイントだから、
ちゃんと言葉にしておきたい。

 

そもそも、まず、
「自分に勝ちたい」なんて言うとき、
大抵は、自分の中に迷いや矛盾がある。
その「迷い」や「矛盾」には、必ず意味がある。
それらの少し奥には、必ず「本音」が潜んでいる。

もしそれらを無視して、
自分のまっとうな抵抗を抑え込んで「勝った」としたら、
「負けた側」にされてしまったぼくらの本音は、封じられる。
本音が封じられれば、
自分の根っこにあるエネルギー源との接続が切れる。
そしたら、気力が死んでしまう。

さて、この場合の「勝者」は、いったい誰なんだろう?


少なくとも「ぼく本人」では、無い。
たぶん勝ったのは、
「お仕着せの正義仮面」みたいなものだろう。

勝ったとはいっても、ここからが問題だ。

そんな存在が、今後も末永く自分を支えてくれることは、ない。

今後もあなたの本音をおさえつけ、
「ねべならない論」や
「あるべき論」で縛り付けようとすることは、
目に見えている。

そもそも、
こちらの真剣な「迷い」や「矛盾」に付き合う
度量さえ無い相手など、信頼に足らぬ。
大切な決断を委ねられるものではない。

だってもし、
「他人」としてそんなやつを想像したら
「うん、嫌いだわ!」って、秒でわかるはず。

でもぼくらはなぜか、
「そういうやつ」を、自分の中に、飼っている。

「自分に勝つ」ということを正しいと信じる人は、
「お仕着せの正義仮面」に、自分の進路を
委ねてしまっている危険性さえ、ある。

それは
「自分の本性を許さない生き方」だ。


すると、どうなるか?


「自分の本性を許せない生き方」をしていて、
自分の内側に「お仕着せの正義仮面」を
リーダーとして抱えている者が、いったいどうなるか?


他人に厳しくなる。


自分だって許されていないのだから、
他人も簡単に許されるべきではない。

自分にだって、自分を常に監視している
存在がいるのだから、他人だって、
同じように監視されてしかるべき。

そんなに自由に振る舞ってはいけない。
そんなに自分の個性を素直に出してはいけない。

そうやって「当然」のように、
自分以上に他人を批判的な目で見るようになる。


そんな「目」で生きていたら、
人生は敵だらけだ。

この世は、
「許されざる人間たち」と、
「監視を条件にギリギリ許されている人間たち」とに
分けられる。
誰も信用なんて、できない。

そういう世界で生きると
とにかく「ルール」が欲しくなる。
人が信用できないのだから、
人ではないところに信用できる拠り所を求める。

そして、
「人間の本性への根本的な恐れ」を前提にしたルールには
柔軟性が欠けていて、どんどん「NG」や「規制」が増えて、
ますます世界は不自由になる。

まして、
「許されざる人間たち」と、
「監視を条件にギリギリ許されている人間たち」ばかりが
存在する世界で、誰かを心から好きになることは、
非常に難しい。

もちろん
「好きになるのが非常に難しい相手」の
ブッチギリ1位の代表が、自分自身だ。


とはいえ「その世界」は、
現実世界のことじゃない。

「その人の、個人世界」だ。

『勝ち負け』というケツの穴の小さい価値基準を
インストールしてしまった、自分の内側だけのこと。

みんなそれぞれが、
同じ地球に生きているようで、違う。
それぞれルールも価値観も異なる、
「個人世界」に住んでいる。



とはいえ……

こんなことを書いているのは、ぼくもその昔、
「許されざる世界」の住人だったからだ。


そんなぼくも……

「厳しく努力すればするほど、自分が楽しくない」
「自分の気力を殺し続けているから(とは気づいてないけど)、
 成果が思うように出ない」
「自他を律しているつもりになっていたけど、
 その基準が独りよがりな、個性を無視したものでしかない」
「自分の周りにいる人たちも、楽しくない」

つまり、

「え……誰もが損ばかりでねえか!」

ということに、気がついた。


だからぼくは、
「自分に勝とう」と考えることをやめた。

ついでに
「逃げちゃダメだ」と考えることも、やめた。

これらの2つはいずれも、
『差し迫った敵がいる』という思想だ。

勝たねばならぬのは、敵がいると思うからだ。
逃げたくなるのも、敵がいると思うからだ。

「敵がいる」という思い込み(前提)は、
プレッシャーと緊張、浅い呼吸と血流の詰まり、
ひいては脳の混乱をまねく。

「そんな状態」で、
まともな考えや行動ができるわけがない。


逃げ「切って」しまってはいけないときというのは、
たしかにある。
でもそれは「たまに」だ。
大抵は「いったん逃げてもいい」ことばかりでしかない。
「一時的な避難」をしたほうが
「ムキになって逃げずに向き合う」より有効なことのほうが
ずっと多い。

「自分に勝つ」だなんて……
「勝者」と「敗者」をわざわざ自分の中にまでつくらなくていい。
それでは、
良い自分とダメな自分を「作り分ける」ことになる。
しかし正確に言うならそれは、
「良い仮面」と「悪い仮面」でしかない。
わざわざ手間ヒマをかけてでっちあげた仮面で、
自分の本音にフタをするようなことは、しなくていい。
良い仮面と悪い仮面のスキマから細々と呼吸をしているなら、
息苦しいに決まっている。
生き苦しいに決まっている。

そんなことをしちゃダメだって、
他の誰よりも「ピッコロさん」(@ドラゴンボール)が
教えてくれたはず。

彼が「悪い心」を切り捨てて神様になろうとしたら、
「悪いはずのほうの半身」は魔王として育ち、
残ったほうの「良いはずのほうの半身」は、
本来の強さや明るささえ、失ってしまった。

そもそも、
「悪い心を切り捨てる」という度量の無い行いをする時点で、
その「良いはずのほうの心」には『許し』が無い。
そんな思想のままで、神様がつとまるわけがない。

(なおかつ、不完全だった神様を身近で支えていたのは、
 『無邪気』『非・評価主義』の象徴たる、ミスター・ポポだった。
 つまりそれが『神に不足していた』という意味だと思われる)

ちなみにその後、神様とピッコロ大魔王は
「1つに戻る」ことで、力を取りもどすわけだけど……


ぼくらも「そういう遠回り」を、
ついやってしまう。

「自分に勝とう」などと考えるリスクは、果てしない。


「氣が乗らない」
「氣が進まない」
「氣が向かない」

すべてに、理由と意味がある。

「自分に勝とう」なんてする前に、
乗らない氣のことを、
進まない氣のことを、
向かない気のことを、ちゃんと考えたい。

その手探りの末に、
「迷い」や「矛盾」というブレーキがはずれさえすれば、
必ず氣は、前に進み出す。

「価値判断」より「理解」を先に、
少しだけ丁寧にできるなら、
この世から「勝者(仮面)」や「敗者(仮面)」は消える。

その代わりに「理解者」や「味方」が現れる。


たぶん、
自分というものを初めてとして人間とは、
叱って伸ばすものではない。
かといって、常に褒めて伸ばすようなものでもない。

理解して伸ばすものだ。

叱咤や激励がいくらあっても、
その事前に「理解」がありさえすればば、
「勝者と敗者が分かれる許し無き世界」が
生まれることはない。

善し悪しを人間レベルで勝手に決めるような
いびつで不毛な世界に囚われることはない。


理解は許しのはじまり。
許しは癒しのはじまり。

そして、勝敗や価値判断を捨てる……または
少なくとも「しばらく保留する」ことが、
理解や許しの、はじまり。


体の善し悪しを決めつけない東洋医学から、
ぼくは多分、そのことを教わった。


だから「自分に勝とう」とすることは、やめよう。


自分をわざわざ敵に回して戦うことじゃなく、
自分の味方として「氣が進むようなやり方」を探すことに、
手間ヒマを使おう。


ではでは、今日もお大事に。
人生ゲームにおける「敵の数」と「難しさ」は、
自分で決めている【設定】なんだと思うんです。