楽ゆる式◎セルフケア整体

心と体が楽になるコツ。辛い症状・病気を自分で治したい人へのヒント。 ----- by 楽ゆる整体&スクール代表 永井峻

「他人と比較して苦しむ」のを減らす方法


「他人と比較するのを、やめたい」

なぜなら、不幸のもとだから。
意味がないから。
自分の軸がブレるから。
ウソが混ざった情報に、振り回されるから。

「でも……なぜだか、できない」


そういう悩みって、あると思います。
当然ぼくにもたくさんあったし、今も、残ってる。

でもね、気がついたんです。

 


ぼくの中にも、
●他人との比較をしちゃう分野 と
●他人との比較なんてしない分野 の
両方が、ある。

じゃあ、
「他人との比較なんてしない分野」では、
どうして比較せずにいられるのか?


たとえばその代表例は、料理です。

考えてみたら、ぼくは、
「料理なんて基本的には、自分と奥さんが美味しければいい」
と思っている。

そして、
「そもそも味の好みがあるんだから、統一の基準なんて、無い」
と、ハラに決めてしまっている。

ただ、
「徹底的なNG」はあるから、それだけは押さえたい。

・火の通し加減を間違うとまずい
・似た味が続くと飽きる
・素材の味が消えるとうまくない
・重いのと軽いのはバランスよく
・しょっぱいのと甘いのと辛いのと酸っぱいのを、バランスよく

みたいなね。


それらさえ押さえたら、
「あとはもう、好みの問題でしょ?」
って思ってる。

思い定めている。


だから、他人との比較をしない。
比較をする必要がない。
何より「比較基準」が無いんだから、
比較することが不可能なんです。


その証拠のように、
超おいしいとされる有名店の料理だって、
賛否両論、あるもんね。
それでいいし、そんなものなんです。


たぶん、ここまでは、納得できるでしょう?


でもねこれ、よく考えたら、
働き方だって楽しみ方だって生き方だって……
同じなんだよね。


仕事とか楽しみとか人生だって、
「あとはもう、好みの問題でしょ?」
って言ってOKな話なんです。


……っていうか、ほんとうは、
仕事とか楽しみとか人生の
「好みの問題である度合い」って、
料理なんかよりも遥かに上、だよね?


●どういうときに仕事のどの部分に充実を感じるか
●何をなぜ楽しいと感じるか
●どんな人生を送りたいと思ってるか

そういう「基準」って、
みんな、ひとりひとり、ぜんぜん違うんだもん。

仮に、
同じ日本、同じ地域、同じ家庭、同じ両親、
同じお小遣い、同じ年齢の双子だって、
「好み」は違うんだから、

本当は「正しい比較基準」なんて、無いんだよね。


それを「評価基準」と呼んでもいいんだけど、
「そんなものが実は存在しない」ことを、
みんな、うすうす、わかってるんだよね。

でも、無いと不安だから、欲しくてしょうがない。

で、ちゃんとしたものが無いからこそ、
「テストの成績」とか、
「いいねの数」とか、
「学歴」とか、
「年収」とか、
「キャリア」とか、
「ステータス」みたいな、
〝少しでも比較基準っぽいもの〟が出てくると、
なぜかそれが重要なものに見えてしまう。

それらって実は、
「まともなものが無いから仮に使われてるだけ」
なんだよね。



だって考えてみたら、
「好み」が違うというだけでも、
「比較するのは結局、あんまり意味がない」んだよね?

だったら……

人生なんてテーマで考えたら、
すぐ思い付くだけでも、
「好み」
「価値観」
「歴史」
「環境」
「人間関係」
「性格」
「素質」
「健康度」
「重要テーマ」
「憧れ」
「恐れ」……などなどなどなど、
人によって、まったく違う。

だったら、
「他人と比較するのはやめよう」なんて
よく言われる精神論は実は的がはずれている、
というか、
甘っちょろい話でね……

「他人との比較なんて、そもそも無理・無駄・無意味」

っていう物理論だよね。


だって無理なんだもん(笑)


たとえば、
「フィギアスケート」と「モンゴル相撲」の対決とか言って、
浅田真央さんと貴闘力を連れてきたって、
勝負できないもんね。
(見てみたい氣はするけど)

それはもう「競技が違う」んだから、
ルールも採点方法も衣装も審査員のレベルも好みも……
何もかもが、別もの。

そんなの比較対象にさえならない。

あったりまえだよね。



でも、
ぼくらの仕事や人生だって、
それぞれが、そもそも「違う競技」なんだよね。

目指してるものも、目指し方も別々。
ルールも採点方法も衣装も審査員のレベルも好みも、
みんな違うでしょう?


っていうか、
審査員がそもそも本当は、
「自分自身」しかいないんだよね……
(あ、やばい、別の結論が出ちゃったw)



だから、上下なんて無い。
縦も横もない。
前も後ろもない。
後も先もない。
それは基準という存在が前提だからね。

広大な宇宙で、みんなそれぞれ、浮いてるだけ。
始まりも、終わりも、違う。
だから飛び方も、飛ぶ方向も違う。


比較なんて、幻想でしかない。


(比較というものは、
 単位や条件や前提をきちんと揃えたときだけ
 有効なものだから)


これはたぶん、ぼくの考えというよりは、
「事実」だと思うんです。


とはいえね、
つい誰かと比較しちゃうのは「クセ」みたいなもんで、
誰にだって、ある。
(なぜなら、一般的に家庭や学校や社会で、
 比較され続けてきたから)

ただ、
そういうときに、
「あ、いけないけない、比較するのはやめよう」
って考えるんじゃなくて……

「あ、いけないけない、
 また意味のない比較幻想に騙されかけてた」
って考えよう。


ぼくはこの違いを、とても大きいと思う。


「やっちゃいけないことを、またやってしまった」
という経験を溜めるのか、
「そもそも無理で無駄なクセを自覚して、キャンセルした」
という経験を溜めるのか。

この両者では、
潜在意識や感情にたまる「ゴミやストレスやノイズの量」が、
まったく違うよね。


最後に。

大事だからあと1度だけ繰り返すけど、
ぼくらはみんな「全く違う競技」をしてる。

誰もがみんな、それぞれ、
見当違いの方向に走って、転んで、寝て、起きてる。

すれ違うときはある。
一緒に走るときもある。
でも、同じコースには、決していない。
同じゴールなんて、目指してないから。

それは孤独というより、とても爽やかなことだ。
いっときでも重なることが、立派な奇跡なんだと思う。
(そう思えることのほうが、健全なんじゃないか、とも)


だからきっと、大事なのは2つ。

「自分の競技が何か」を見つけ続けることと、
その審査員長を他人にしないこと。


それさえ意識のすみに置いておけたら、
色んな悩みが軽くなる……んじゃなくて、
「在りもしない幻想」として、勝手に消えていくはず。


「あ、これは、悩みというようなシロモノでは
 なかったんだね」

つってね。


あ、すごい最後に、もうひとつだけ。


『他人と比較することに意味がないランキング』
の、ぶっちぎりの全米ナンバーワンは、
何かわかる?


……そう。



『健康』だよ。



ではでは、今日もお大事に。
「そんなんで経営はやっていけないだろう」と
言われそうな氣もしたんだけど、
「こんなんだから経営していけてるんだよ」
ということは、最後に強調したい。