楽ゆる式◎セルフケア整体

心と体が楽になるコツ。辛い症状・病気を自分で治したい人へのヒント。 ----- by 楽ゆる整体&スクール代表 永井峻

「理想」と「現実」は、選ぶもんじゃない。セットで育てるものです。


「そんなの、理想論でしょ」

――この、他人の希望にまでフタをして
勝手に片付けるような言い方が……ぼくは嫌いだ。

嫌いだということは、
ぼく自身がこう言われることが、
少なくなかったのだろう。

 


でもその度、
「そのまんま100%叶うとは、俺だって考えてないよ」
と答えてきた。

実際、仕事にしても生活にしても、
もともと考えていた理想を100とするなら、
今は……70ぐらいだろうか。

ただ、ちょっとマジメにいうなら、
理想自体が変形したところもあるから、
50ぐらいの「オマケのデザート」が付いてきた感が、
正直、ある。

ざっくり合計したら、120の満足度。


ぼくがこの満足度の足跡をふんでこられたのは、
「理想論」と呼ばれた、
ぼくの夢物語のおかげだ。


先日、
初めて行ったカフェのココアが
予想をはるかに超えて美味しかったときに、
ふと思った。

ぼくの考えを理想論だとして
なぜか怒っていたあの人たちは、
今、どれぐらいの満足度で生きているんだろう……?


彼らに言わせれば、
理想の反対は「現実」だろう。

本を出したいとか、
整体で独立したいとか、
ラジオ体操よりすごいものを作りたいなどと
理想を語るぼくに、
「もっと現実を見ろ」と主張していたんだろう。


当時のぼくはただ、ムッとしていた。

ぼくが一生懸命説明すればするほど、
彼らはもっと怒るように思えて、
伝えるべき言葉が探せなかった。


でも今のぼくなら、言えることがある。


「それは順番の問題でしかないよ」

と。


高い理想を思い描いたぼくも、
本気でそこに向かうためには、当然、
一歩一歩、足を運ぶことになる。

そこでどっちみち、現実を見る。

もちろん、イヤになったりもする。
予想と違うことなんて、無数に出てくる。
転んだり起き上がったり、
転んだ後しばらく寝ていたりもするし、
ごろんと横になってふてくされたりもする。

でも、覚えている。

なんとなくでも思い描いた理想を、覚えている。
そこが遠いことも、わかる。
スタートしたときより、もっとわかる。

でも、もう一度立ち上がるときに、
その景色が、ぼくに動機を与える。

転ぶときも立ち上がるときも、
顔が目が「そっち」を見ている。

そうやってぼくは、
順調にでも見事にでも爽快にでもなく、
亀のような速度で、しかし着実に、進んできた。


逆に、こういうとき「彼ら」は、
どこを見て、立ち上がるんだろう。

挫折したときこそ、右も左もわからくなる。
そういうとき、
仮初めの目印さえ無いなら、
いったいどうやって、迷子から抜け出せるんだろう。

現実から世界を見始めるという彼らは、
理想ではないどんな望遠鏡で、
未来を視るんだろう。


理想が目的地なら、
現実は現在地だろう。

たとえば、旅の途上で、
「今、どこにいるのか……現在地だけわかってる人」と、
「今、どこに行くべきなのか……目的地だけわかってる人」とが
いたとして、
どっちのほうが、迷子として、ひどいんだろう。

ぼくは目的地だけわかってるほうがマシだと思う。

なぜなら、
「現在地」は、そのへんの人にも聞ける。
だって今現在、ぼくもその人も、現在地にいるんだから。

でも「目的地」は、そのへんの人には聞けない。
だってそのへんの人が、ぼくの目的地に
行ったことがある確率は、かなり低いから。


それに、
生き方について考えていた本論に戻るなら……

理想=ふわふわした頼りないもの
現実=しっかりしたリアルなもの

という「常識的な前提」も、
ぼくには大変あやしく思えてくる。

だってぼくも含めて、
理想というものが個人的かつ妄想的であるのと同じように、
現実というものだってだって充分に、個人的かつ妄想的だ。

「今の現実が何点ぐらいの幸せか」

なんて、
審査員が10人いたら、
10通りの答えが出てしまう。

理想にリアル感や客観性が足りないのと同じぐらい、
現実にだって本当は、リアル感や客観性は、期待できない。


こう考えてきて、
ぼくは「幸せの青い鳥」のことを思い出した。

あの鳥は、
「理想」を追い求めて彷徨った結果、
「もといた場所(≒現実)」に
本当の幸せがあることを発見したんだよね。

だからきっと一般的な結論では、
「理想ばっかり見てないで、足元をちゃんと見なさい」
となるんでしょう。


でも、じゃあ、
「もといた場所(≒現実)」に最初から居続けてたら、
青い鳥は見つかったの?

……そうじゃないよね。

理想を追い求めて彷徨ったから、
いろんなものを見て学んで成長してから帰還したから、
「青い鳥」が見つかったんです。

もっというと、
「青い鳥を見抜けるような自分になった」んです。


だからあの物語の本質は、
「探し場所を間違えなければ幸せが見つかる」
ってことじゃなくて、
「探し物がたとえ見つからなくてもその過程の成長によって
 特別じゃない場所でさえ幸せを見つけられる自分になれる」
ってことだと思うんです。

(あれ? これ……2023年の富山県読書感想文グランプリじゃない?)


そう考えたら、
昔のぼくが、理想について
「そのまんま100%叶うとは、俺だって考えてないよ」
としか言えなかったのは、
間違いではなかったように思えます。

きっと、
理想だけ語ってもダメとか、
現実だけ見ててもダメとか、
考えるべきなのは、そんな低い論点じゃない。

大切なのは、
理想も現実も「より正確に見たほうがいい」
ということ。

そして、
「現実をより正確に見るためには、理想が必要」だし
「理想をより正確に見るためには、現実が必要」。

……なんだから、
「理想」と「現実」を行き来することが何より有効、
ってことなんだと思います。

(そういえば、ぼくが大好きな「ガンジス」という歌のなかで
 長渕剛が、「旅をするのは帰る家があるからだ」って言ってたよ)


つまり、
「理想」と「現実」は、セットで生きるもの。
どっちのほうが大事ってもんじゃあねえぜ、と。

ってことは、
「理想ばっか見てんじゃねえよ」ってセリフと同じぐらい、
「現実ばっか見てんじゃねえよ」ってセリフが必要な人も、
いるんだろうね。


だって実際に、
「今の現実がどれぐらい良いものか」
なんて、
目的地によるもんね。
そことの距離でしか、測れない。

「今、練馬にいること」が良いか悪いかなんて、
目的地がもし池袋ならかなり良い感じ(近い)だけど、
目的地がもし苫小牧ならすごいアカン(遠い)もんね。


そもそも理想って「高いもの」だけじゃないしね。

たとえば、ぼくの理想の食事なんて、
「めっちゃ美味しい塩むすび」だし。


もしかしたら「そんな自分である」
ということこそが、他のどんな客観的な情報よりも、
「現実」なのかも知れないね。

理想ばかり追いかけるロマンチストでも、
現実しか視野にないリアリストでもなく、
理想と現実を旅しながら酸いも甘いも楽しむ
ダンサーでありたい。

それでたとえ道化師と呼ばれてたって、
特定の誰かに届くソネットを歌えばいいんだ。


ではでは、くれぐれもお大事に。
今回のお話はいわゆる「ドリームキラー」に
生きる活力を奪われることがないようにと願って、
書いてみました。