とある親子3人が、リレーをした。
父親には、
息子たちに残したいものがあった。
しかし、
父親と長男は、バトンの受け渡しができなかった。
近すぎたからだ。
父親が「今こそ渡したい」とき、
長男は「ぼくはぼくの道を行く」と突っぱねた。
仲が悪かったわけではない。
そんな宿命なわけでもない。
ただ、タイミングが合わなかった。
次男はそれを見ていた。
父親が「今度こそバトンを渡したい」と思ったころ、
彼は長男とのリレーのときよりも少し、年老いていた。
傷を負ってもいた。
ただそのぶん、バトンは優しく差し出された。
次男は「ぼくの道はあるけれど」と、父の意思を受け止めた。
先に大人になった長男は、背中でそれを感じていた。
父からのバトン……直接は受け取れなかった。
もう間に合わない。
あのとき受け取っていれば、と考えることがたまにある。
しかし、その小さな悔いが、空白の手が、
父のことを考えさせる。
彼が亡くなってからは、余計に、
「父ならば」と思考を馳せる。
バトンが手元にないゆえの、想像の飛距離がある。
結局どちらにも、バトンは渡った。
弱いスピードでもしっかり受け取った者。
早すぎて一度は落としたが、後で拾い直した者。
どちらにも、それぞれだけの、意味があった。
結局、バトンは渡る。
タイミングは一度ではない。
生きているうちだけでもない。
いったん拒絶されたら終了、ではない。
受け取ったように見えたら完了、でもない。
タイミングは、
やって来て、
行き去りて、
また巡り来る。
渡し手があきらめてもう見ていない頃に、
受け手が一人で「拾い直す」こともある。
最初は軽くしか受け取らなかった者が、
改めて眺め直したり、
握りしめ直すことも、ある。
だったらぼくらは、
すごいものを残さなくても、
バトンらしい形で渡さなくてもいい。
どのみち『完全な継承』はない。
完全な継承など無いから、
バトンを渡す者、
バトンを受け取る者、
バトンを直接は受け取れなかった者、
その誰もが、
一人ではできなかったことが、できる。
渡す者は、コピーが欲しいわけじゃない。
受け取る者も、コピーになりたいわけじゃない。
だから、不完全でいい。
未完了でいい。
ただ、思考を馳せたい。
「あの人ならば」と考える。
バトンがあろうと、なかろうと。
それがおそらく、継承ということ。
人が人にできる供養の、大きなひとつ。
そのとき「間に合わない」と思っても、
あとで「間に合ってくる」ことって、
本当に、ある。
……実はこんな思想もあって、
ぼくは「永井整体」なんかじゃなく、
「楽ゆる整体」という名前にしました。
「永井をマネしてみる」のは役立つと思うけど、
「永井のようになる」必要は、無いんだから。
ぼくは、どんなバトンを残せるのか。
または、残せないのか。
それは多分、どっちでもいいんです。
ぼくは「残したいタイプ」だから、
残そうとは、するけれど(笑)
あとはもう、
拾ってくれた人の自由だもんね。
ただ、
せっかく生きてせっかく死ぬのだから、
「いざ拾ってみたら予想以上に面白いし柔らかいし
実用的ですごく美味しい」という……
チクワみたいなバトンを、残したいな。
ではでは、今日もお大事に。
ぼくにこんな文章を書かせた犯人はたぶん、
『葬送のフリーレン』という名作(マンガ)です。