「日本のカレー、ぜんぜん、おいしくナイヨ!」
なんてことを言われましてね。
おいおい、ちょっと待ってくれよ、と。
そりゃあ好みはあるだろうけど、
ほんとにおいしいやつ、知ってて言ってんのかい?
例えばどこで食べたんだい?って聞くと、
「マツヤだよ!」
って、言うじゃない……
顔、超マジなんですよ。
しかも、それ以外、食べたことないんだって。
いやいやいやいやいやいや、
おいおいおい!
お前さん、ひとつしか知らないで、
「日本のカレーがおいしくない」なんて
言ってくれるなよ、と。
一部しか知らないで、
ぜんぶを判断しねえでくれよ、と。
しかもM屋だけて。
山ほどのツッコミがあるわけですが、
でもね、
こういうこと、よくあるな、とも思ったわけです。
はじめの印象が強烈だと、特にね。
最初に食べたウニがすごく臭かったら、
「ウニってどうも好きじゃない」ってなるしね。
中学校のとき、
英語はどうも好きになれないと思ってたけど、
最初の先生じゃなくなったとたん、面白くなったり。
逆に、
はじめて受けた整体の先生がいい人だったけど、
知れば知るほど、「怖い人やひどい人、こんなに多いのか」
って絶望したりして。
わかんないよね。
「どうせまだ、一部しか知らない」
って、思っていたい。
不安とセットかも知れないけれど、
希望があるのも「未知」のどこかだもんね。
そしてその「未知」は、
「もう知ってるはず」のことの中にこそ、
たくさん隠れている。
濃いところだから、奥のほうにあったりして。
その一番の宝庫が、
他でもない人間だったりする。
「どうせまだ、憎いあんちくしょうのことも、一部しか知らない」
「どうせまだ、愛しいお前さんのことも、一部しか知らない」
「どうせまだ、自分のことだって、一部しか知らない」
って、思っていたいなぁ。
そう思えているうちは、
生きるのがつまらないなんて、
言わないで済むんじゃなかろうか。
希望も絶望もゴロゴロ落ちている中で、
わざわざ絶望ばかりを手に取っちゃうことも、
減るかも知れない。
幸いなことに、一部しか知らないのは、
疑いようもない事実ですしね。
たまには、新しいカレーを、食べにいこう。