不安の「言う通り」になってはいけない。
なぜなら「不安に従い過ぎた犠牲者」がたくさんいるから。
もしものことを考え過ぎると、自分自身を縛りつけることになる。
たとえば、腰痛や頭痛、パニックや風邪などを恐れて、
安静に安静に、自粛することがある。
まるで「我慢という対価」を支払えば回復という願いが叶うかのように、
大人しくする。
怖いのは、そのせいで症状がむしろ悪化すること。
ぼくらの体は(本当は心でさえ)、活動によってエネルギーを生む。
あらゆる活動の「ポンプ作用」で、血を巡らせ、骨をつくり、細胞を入れ替える。
いわば「自家発電」で、ぼくらの体はまわっている。
その発電を止めてしまったら、やがて停電になるのは当たり前のこと。
もちろん、本当に無理をしちゃいけないときだって、ある。
でも無理をしないことと「何もしないこと」は、似ているようで、全く違う。
不安を無視しろなんて言わない。無理をしろとも思わない。
ただ、不安という心の声は「注意信号でしかない」と、知っておきたい。
「止まれ」の赤色ではなく、「慎重に進め」の黄色のほうなんだ。
だから、
「不安な気持ちは大事に踏まえつつ、慎重に小さく挑戦する」
というバランス感覚でいたら、いちばん実りが多いと思う。
大原則は、
「不調のある場所こそ、慎重に安全に、動かせ」である。
「心の声にしたがう」という言い方がある。
とても良いのことのようで、耳ざわりもいい。
でも、不安というのは、数ある心の声のうちの、1つでしかない。
不安は未来ばかりを見ている。
直感は現在にだけ存在する。
理性はその2つを行き来する。
それぞれの心の声を聞き分けてこそ、前に進める。体や心は良くなる。
もちろん、
誰だって調子が悪いときには「不安の声」のボリュームが大きくなる。
いちばん先に聞こえる。それは自然なこと。
だからそれを「そんなもんだ」と知っておこう。
不安をもとにすぐ判断したり行動したりするのは待って、
「不安以外の心の声」に耳を澄ませたい。
もし……幼い子どもが泣いたら、放ってはおかない。
その子にいったん心を置いて、相手をする。
けれど、泣きわめく子の要望をそのまま叶えていたら、おかしなことになる。
「もう全部やめたい」「お母さんなんか嫌い!」は、本音ではない。
そう、
不安というのはあくまで「信号」であって「本音」ではないんだね。
結論をくりかえすけれど、
「不安な気持ちは大事に踏まえつつ、慎重に小さく挑戦する」
「不調のある場所こそ、慎重に安全に、動かす」
そんなふうに心の中を整理しておけば、
正しく回復に向かっていけるんじゃなかろうか。
不安を優先させるあまりに
自分の回復力を封印しちゃってる人たちを見て……
「不安の取り扱い」について、一度、
ちゃんと書いておきたいと思ったのでした。
(そしたらなんだか、松下幸之助風になったんだとさ)
ではでは今日も、お大事に。
こんな新しい書き方をしてみることも、不安でした(笑)
でもきっと、壊したり直したりのくり返しなんだろうからね。