なんか説明がむずいんだけどね、大事っぽい……
「これで足りてるでしょ?」って
思っちゃいけないって、わかった。
気づいたきっかけは水分のこと。
氣の診断でよく「水分不足か」をチェックするんだけど、
この不足度がたとえば3割だともうプチ脱水状態で、
脳とか内臓の機能が落ちてくるのね。
かつ、健康法が効かない。
だから超大事。
で、つい一昨日ぐらいに、
水分の不足度が0割(つまりマイナスではない)なときに、
ふと思い付いて「充足度」をチェックしてみたら、
充足度は7割だったのよ。
驚いた。
この……3割!
「不足ではない」と
「充足している」の間には、
無視できないでっかい差があった。
この3割分の不満というかギャップを、
ぼくは長年ずっと、無視してきたことになる。
3割って、
プチ脱水症状かどうかを分けるぐらいの影響力なのに。
もちろん、
水分の話だけでも問題なんだけど、
睡眠、遊び、仕事、学び、会話、服……
どれだけ多くのジャンルで、
「不足じゃないならいいでしょ」って、
自分の望みとか欲とかポテンシャルにフタをしてきたのか。
「楽しくなくはない」とか「まあ楽しい」
でエネルギーの注入や工夫を止めて、
「楽しい!」とか「すごく楽しい!」
に向かえるポテンシャルを、多分すごい量、殺して来てる。
まるでその証拠みたいに……
珍しく例外的に、2つだけ、
「充足までこだわる!」って我を押し通してこれてたのが
「料理」と「整体」で、
考えてみたら、どんな厳しい状況でも楽しくやれてたのが、
この2つだった。
考えてみたら、
「不足じゃないところ」までは、穴を埋めるだけだから、
そんなに個性が無い。
プロセスにもゴールにも個性が問われない。
たぶんその必要もあまりない。
足りないものははっきりしてる。
「平ら」にするだけ。
平均化する。
でも「充足するところ」まで目指したら、違う。
平らな地面の上に、自分で何かをつくることになる。
形も色も自分でえがく。
プロセスにもゴールにも個性が問われるというか、
勝手に出る。
小さかろうが不細工だろうが、
自分の塔をつくる。
突出化する。
「不足の穴を埋める」のは簡単で、成果もすぐ見える。
効率的といえば、効率的。
「充足の塔を建てる」のは困難で、成果はなかなか見えない。
効率性は高くない。
でも「新しいエネルギー源を生むか」で考えたら……
短期的な成果の効率じゃなくて、
長期的なエネルギーの効率で考えたら、
前者はジリ貧。
後者には未来がある。
完成前の試行錯誤中でさえ、エネルギーは生まれる。
(性格にもよるだろうけど)
……そう考えたら、
「どうなったらOKか?」とか
「足りないものはないか?」って問い方は、
ロボット化に向かうワナなんだな、と。
ぼくには、自分にはこう問うクセがある。
ちきしょう、いつからだ!
でもそれに気づいたからには、
「どうなったら最高か?」とか
「贅沢をいうならどうしたい?どうなりたい?」
って問い方のほうを自分に与えていこう、と。
全ジャンルとまではいかなくても、
少なくとも、大事なこととか人とか、
それらとの関わり方について、
「妥協が当たり前になって、しかも妥協にさえ気づかずにいた」
ってことにならないようにしたい。
って、思いました。
ちょっと小難しい話だけどね、
健康になるのに「エネルギー」って、すごく大事だから。
エネルギー=意欲、と言い換えてもいいけど。
「どこも痛くないようにしたい」
って、欲ではないからね。
「痛くなくなったなら、何をしたいか」
ってところまで、欲してね。
ではでは、今日もお大事に。
「自分をナメちゃあかんよ」ってことだなあ。