自己愛が強いように見える人は、
自己愛が、実は足りないんじゃないか。
22才ぐらいの新人さん研修をするなかで、
実感したことなんです。
ほんとうに自分を大切に思うなら、
自分だけに関心を向けるのは危険だもんね。
親の、子に対するゆがんだ愛情と、似ているかも知れない。
「子を守ろうとし過ぎる」ことで、子どもの成長が遅れる。
親がいつも近くにいることで、友達ができにくい。
そういうケースって、あるでしょう?
親がいないと自分では何も考えない、決められない、できない子になる。
ひどい場合は「親の顔色ばかり見て自分を殺す子」ができあがる。
この場合、親が子を「ちゃんと大事にしている」とは言えません。
「スポイルする(ダメにしてしまう)」と呼ばれます。
自己愛についても、よく似てる。
歪んでしまった結果、
自分をスポイルしてしまう子が、多くなっている印象があります。
「自分育て」に失敗している。
そういう発想自体、ないんでしょうけどね。
ぼくたちの中には、
「親的な自分」と「子ども的な自分」がいます。
「こうすべきだ」と言う自分、
「こうしたい」と言う自分です。
この「自分の中の親部分」が、
ゆがんだ親のようになっているんじゃないか。
「自分を守らないといけない」と考えるその「守り方」が、
過剰防衛に、過保護になっている
「あいつんちは、母親がうるさいから、遊ぶのやめようぜ」
って子ども同士でなってしまうのと同じように。
「いいんだ、友達なんかいなくても。ぼくには母さんがいる」
といって、ますます閉じていく子どもと同じように。
中へ中へ、閉じてしまっているような。
その愛情は、なんとも浅い。
閉じているから、見えるのは、自分の部屋の中だけ。
外に出ないから、比較対象がなくて、
自分自身のことさえ、よく見えていません。
じゃあ、何を見ているの?
インターネットという「仮想でしかない外部」と、
限定された情報をもとにつくった、
「自分だけの世界」です。
外過ぎて表面でしかない外部と、
中過ぎてどこにも・誰にも接続できない内部。
自覚なき檻の中にいるような。
だから、他人に興味を示さない。ほもそも興味を持てない。
必要以上に仲良くしない。
恋人もいらない。
他人との距離感がつかめない。
公私の区別がつかない。
上司を上司とも思わない(ように見える)。
危機感がない。
葛藤に耐えられない。
夢や欲望も見えない。
他人のことも自分のこともよく知らないから、
「人間について、よく知らない」
……これ、怖くないですか?
「人間について、よく知らない」
大げさに聞こえるかもしれません。
でも、
「ネコについて、よく知らない」で、イメージしてみて下さい。
よく知らないから、おそるおそる近づくけど、
どう触れていいのか、わからない。
いざ触ろうとすると、死角から手を出したらしく、
ネコに「ビクッ!」とされてしまう。
それを見て本人も「ビクビクッ!」とする(笑)
警戒されて、すぐソッポを向かれる。
うまくいかない。
「ああ、どうもぼくは、ネコが苦手らしい……」
下手をすると、その後、ネコに近づかなくなったりする。
「どうやらネコも、ぼくを好きではないらしい……」
狭い中にいるから、
「部分しか見えないから」、
拡大解釈しかできない。
そんな症状が
10~20代の子に起きてると思ったら、
怖くないですか?
「人間について、よく知らない」
というのは、そういう意味と重さです。
で、↑で仮に書いたネコの話のように、
「どう他人と接していいかわからない」から
「お互いに警戒しあったり」、
「わからな過ぎてムダに傷つけ合ったり」して、
「ああ、どうもぼくは、人間関係が苦手らしい……」
下手をすると、その後、人間に近づかなくなったりする。
同じ流れで、
「ぼくはどうやら大人全般が苦手らしい……」だって、
「ぼくはどうやら社会が苦手らしい……」だって、
発生しちゃいますよね。
勘違いの拡大解釈なんだけどね。
そういう「根っこの頼りなさ」を持った子たちに、
ロジカルシンキングやプレゼンテーションを教えても、
正直、使えやしません(笑)
発注されてるのは、それなんですけどね。
大人や社会に接続していなくて、
興味も信頼感もないのに、
ビジネススキルなんて活かしようがない。
そもそも米を好まない地域でチャーハン教えてるような
「空振り感」があるわけです。
だから、必死になってやるのは、
どうにかして他人の気持ちや上司の気持ちとの接続をつくること。
まずは自分を大切にする手段としてでもいいから、
他人を思う意思を持つこと。
そのための具体策を渡すこと。
難しいです。
本当に難しい。
もちろん、ぼくは片手間でしかやれていません。
専門で教育に携わっている人の苦労は、
数十倍でしょう。
だからこそ、ますます、思うんです。
どうせ自己愛なんて消せないんだから、
逆にもっと深められないもんかな、と。
サボテンより熱帯魚より身近なアイドルよりゲーム内の恋人より、
「生身の自分育て」にハマれたらいいのに。
専門書なんかも読んでいて、
ぼくの実感を客観的に説明してくれる知識に、
たくさん出会いました。
どうもキーワードは、
「社会に出るまでずっと安全過ぎたこと」
みたい。
守られて愛されて、温室栽培のように。
叱られること、ケジメをとること、
我慢することや競争を知らずに育ってしまう。
あと、
「触れ合う大人のサンプル(実例)が両親と教師しかいない」
という問題も深刻なものとして指摘されています。
そうなると、
「大人=与えてくれるのが前提の甘えてもいい存在」
という強烈な誤解の刷り込みになってしまう。
まるでその証拠のように、人事業界では、
「今の新人は、昭和世代の感覚よりマイナス10才で考えるしかない」
という悲しい共通認識があります。
つまり、面接に来る現代の22才は、
精神的には12才だと思って接して「ちょうどいい」ぐらいだと。
それほどひどい「メンタルの幼さ」が平均化してきています。
12才が、急に入った「厳しい社会」で、やっていけるか?
競争や評価もシビアな、今までと全くルールの違う世界で、
サバイバルしていけるか?
……超難しいですよね。
だって、ほとんど、
「話が違うじゃないか!」ですよね。
社会に出るまでの22年間は、
お花の観察と調理実習ばかりやってきたのに、
いきなり23年目からはラグビーやらされるようなものです(笑)
ルールが違う。
求められる資質も違う。
今までの蓄積が活かせない。
それどころか強く否定される感さえある。
まったく「違う世界」の「違う競技」が始まって、
うまいやり方はもちろん、学び方や
「受け身の取り方」だって、わからない。
いたい、つらい、どうすりゃいいの、誰にどう聞きゃいいの……?
そりゃ、辞めたくもなりますよね。
もちろん例外はあるけれど、
「自らの自覚なき幼児性」に苦しむ新人は青ざめるほど増えています。
そして「実家暮らし」のままの子に、その傾向が強い。
どうすべきか。
こんな時代に死語のように響くけれど、
「かわいい子には旅をさせろ」です。
競争や制限や我慢や葛藤が含まれる世界へ。
「チヤホヤはしてくれない大人」と触れられる世界へ。
そういう「厳しさ」が一定量ある場所でないと、
命を支えていける「生きる力」や「自信」は身につかない。
よく「成功体験が大事だ」と言われますが、
「成功するかどうかわからない厳しさ」がないところに、
明確な成功なんて、存在しえないですからね。
褒められチヤホヤされてお仕着せられた自己肯定感は、
自意識過剰や自己防衛過剰という重りにはなっても、
己を律したり守ったりしていける鎧にはなりません。
強く感じます。
「体とまったく同じだな」と。
固定があるから、ストレッチは伸びる。
重りがあるから、筋肉がつく。
重力のおかげで、骨は強さを保つ。
よく使われることで、血流はまわる。
もちろんすべてに「安全な睡眠」は必要だけれど。
「安全」だけでは育たない。
「安全」と「負荷」
どちらも適度に与えてあげること。
「安全な家」と「負荷のある旅」の両方を栄養とすること。
「ストレッチ」と「ストレス」の語源が一緒なのも、
こういうところですよね。
体の健康も、
心の健康も、
社会能力の健康も、
「安全」と「負荷」のバランスに尽きるのだと思います。
安全が、足りているか。
負荷が、足りているか。
シンプルだけど、
真剣に取り組んでいく価値のある問いだと思ったんです。
子育てでも、
自分育てでも、
からだ育てでも。
ではでは、くれぐれも、お大事に。
シーソーは両側に傾き続けることで、サビない。